第22話
エルネストは言った通り、すぐにお茶を運んできた。
「まだ熱いですので、お気をつけください」
「ありがとうございます」
千鶴が座るように言っても、エルネストは仕事中だと言って頑なに拒否する。
千鶴は首をすくめて静かにお茶を飲み始めた。
カップから半分の量が減ったところで、千鶴はいつか聞こうと思っていたことを口にした。
「エルネストさんに、聞きたいことがあるんです。答えてもらえますか?」
「わたしで答えられることでしたら」
「最初に会った日のことです」
いまだ湯気の立つカップから千鶴が顔を上げると、エルネストと視線がぶつかった。
「どうして、聖女があの部屋にいるって分かったんですか? わたしたちは初対面だったし、わたしが嘘をついている可能性だってあった。あのとき、エルネストさんは調べがついていたって言っていたけど、本当はほかに理由があるんですよね?」
「……気を悪くしないでいただきたいのですが、チヅル様の……純人の匂いで分かりました。純人と獣人の匂いは違います。今まで経験したことのない香りが、あの部屋から漂っていました。特に、わたしは鼻が利く獣性を持っていますので、たとえ何者かが偽ったとしても無意味です。事前に調査をしていたのは事実ですが、詳しい部屋までは分かっていませんでした」
あの夜、屋敷に潜入し、部屋を順番に回っていたエルネストは、不自然に鍵のかけられた部屋を見つけた。扉に近づくと、初めて知る匂いが鼻をかすめた。それは、脳を刺激するような、心臓を鷲掴みにされたような、刺激的な香りだった。確証はないのに、本能が見つけたと叫んでいた。そして、その本能の従うままに扉を叩いた。ゆっくりと扉に近づく気配の主を驚かせないよう、静かに。
「待ってください。気配って言いましたけど、かなりこっそり静かに歩いた気がします。絨毯の上だったし、足音はしていなかったはずですが……」
「わたしは聴力もいいのですよ」
「じゃあ、あの鍵は? 結構頑丈でしたよね?」
「鍛えていることも確かですが、あれはチヅル様用に準備したものでしょう。獣人であれば、壊すことは容易いです」
エルネストの言葉に、千鶴はただ感心したように「そうですか」と呆けながら言った。
「本当に、ここは獣人の国なんですね」
「すみません。ご不快な気持ちにさせてしまいましたか」
「いいえ。そうじゃなくて、純粋に驚いているといいますか……」
獣人の見た目は人間のそれと変わらない。しかし、彼らが獣の姿になることができる人間ではなく、人間の姿をすることができる獣人なのだということを千鶴は改めて認識した。
千鶴は、獣人の国にいるたった一人の人間。
その事実が、すとんと胸に落ちた。
俯いて黙り込んだ千鶴に、エルネストが歩み寄る。彼女の顔を覗き込むように膝をついた。
「チヅル様に、お詫びしたいと思っておりました」
「お詫び?」
「初めて見る獣人が……獣化した姿がわたしでは、さぞ怖かったでしょう?」
ここが獣人の国であることをビセンテが明かした、満月の夜。あの夜以降、千鶴とエルネストが二人きりになるのは初めてだった。
心配そうな瞳のエルネストに、千鶴は笑って首を振る。
「そりゃあ驚きましたけど、この国ではこれが当たり前のことです」
「しかし……」
「王様と最初にお茶会をしたときに、わたしは言ったじゃないですか。わたしの国には、『郷に入っては郷に従え』ってことわざがあるって。この国では、それが普通。わたしの方が異端児ですよ。だって、獣人じゃないんですから」
「チヅル様……」
千鶴に怖がられたに違いないと思っていたエルネストは、ほっと胸をなでおろす。同時に、過去に存在していた純人も、本来は彼女のように寛大な性格だったのだろうかと思いを巡らせた。
帯刀していた剣を、腰から鞘ごと抜いて床に置く。千鶴の両手を取り、懇願するように、崇めるように、ゆっくりと自分の額に当てた。
彼女の熱が、エルネストの体に溶ける。
「あのときのわたしは、チヅル様のお言葉に甘えていました。わたしは嘘をついているのではなく、断片的に事実を告げていないだけであると。しかし、今このときから、あなたに……チヅル様にお伝えする言葉は、裏表なく、すべて包み隠さないものであると。そして、なにがあっても守り抜くことを誓います。この剣と、騎士エルネスト=トゥーブロンの名において」
二度目になるエルネストの誓いは、懺悔のようでもあった。宣誓に相手の了承はいらないが、それでも彼はこの思いが本物であると、千鶴に知っていてほしかった。
額に当てた小さな手をそっと口元へ運び、恭しく口づける。
エルネストの名を呼ぶ小さな声に顔を上げると、千鶴は困ったように笑っていた。
「エルネストさんは、本当に本当に真面目ですね」
「そんなことはございません」
「エルネストさんが真面目じゃなかったら、みんな不真面目ですよ」
そう言って、いまだ添えられているエルネストの大きな手を、今度は千鶴が強く握った。突然の行動に、エルネストは珍しく動揺したように視線をさまよわせる。
跪いたままのエルネストと目線を合わせるように千鶴が両膝をつくと、はっきりとした声で彼の名を呼んだ。
いつもより、互いの顔が近い。
「わたしも誓うわ。エルネストさんに」
「え……」
「わたしは、立派な騎士であるエルネストさんが守るに相応しい人間に、純人になります。聖女だからではなく、わたしという存在を守っているのだと誇りに思えるような純人になると誓います」
「わたしに、誓っていただけるのですか」
「エルネストさんの誓いに、報いたいと思ったんです」
目を瞠ったエルネストは、しばらく呆然と千鶴を見つめ続けた。そして、その視線に耐えかねた千鶴が名を呼ぶと、はっとしたように彼も千鶴の名を呟いた。
「……わたしは、幸せ者です」
噛みしめるように言うと、満面の笑みを浮かべる。それは、千鶴が見てきた彼の表情の中で、最も輝いているように見えた。
今まで触れることのなかった千鶴の髪をひと房取ると、エルネストはそこに唇を落とす。忠誠とは少し違う、それでいて慕情とも言い切れない複雑な感情が、彼の心を支配した。
すっかり冷めたお茶の存在に気づくまで、しばらく時間がかかった。
千鶴の生活は変わらない。住まいは今も王宮にあった。
エルネストは護衛として、ビセンテは気まぐれに訪れる茶飲み友達として。王とは食事を共にする機会も増えた。
変わったことといえば、領主たちから送られてくる釣書が部屋に積み上げられているということだ。ため息をつきながらそれを眺めては、お断りの返事を書いている。
元の世界の知識をこの国に役立てたいと、思いついたことはトマに相談することにした。トマとの勉強会は現在も続いており、毎週のように彼と顔を合わせている。今では獣人と純人の歴史や、体の違いも少しずつ学んでいた。
今日は貴重な「聖女の御渡り」の原本を見せてもらっていた。ビセンテが言っていた通り、そこには続きの文章が書かれている。
王の許可がなければ閲覧することのできないそれを、トマも興味深そうに眺めていた。
いつも通りの雑談の最中、彼は「そういえば」と思い出したように苦笑した。
「勉強会を始めて間もない頃、チヅルさんの鋭い質問にひやひやしていました」
「いつですか?」
「聖女伝説にある『すべてのものが跪く香りを』という部分を読んで、自分からいい香りがするかと聞いたでしょう?」
「そういえばそんなことを聞いたような……」
「実際、純人であるチヅルさんからはいい香りがします。しかし、それは我々獣人にしか分かりません。あのときは、結局お答えしなかったんです」
トマは眉根を下げ、心底申し訳なさそうに謝罪した。
「いえ、それはいいんですけど……。いろんな方に何度も聞いているんですが、本当に匂いってするんですか?」
「はい。普段であれば、ふわっと香る程度ですが」
体臭とは違うのだというそれは、自分では感じとることができない。千鶴は自分が香りをまき散らしながら生活している事実に、複雑な表情を浮かべる。
「そんな顔をしないでください。本当にいい香りなんです」
「そうだとしてもですね……」
「……普段は、と言いましたね。月に何日か、部屋でお香を焚いている日があると思います。その日は、本当に突然跪きたくなるほど強く香るのだそうですよ」
「え」
「その期間、チヅルさんは部屋から出ないと思いますが」
トマの言いたいことに思い当たった千鶴は、頬を染めて俯いた。
トマはたまにビセンテに似たような笑みを浮かべる。彼は千鶴に多くの知識を与えるが、自身について詳しく語ったことがないと、今さらながら気づいた。
千鶴は気を取り直して、答え合わせをするように問いかけた。
「あのお香を作っているのは、トマ先生ですね?」
「その通りです。チヅルさんの部屋にあるものは、訓練用のお香を応用して作りました。気に入っていただけましたか?」
「効果については最近知りましたが、とても好きな香りで気に入っています」
トマは「それはよかった」と嬉しそうに笑った。
いつか作っているところを見てみたいと一歩踏み込んだ千鶴に、トマはわずかに瞠目する。しかし、次の瞬間には笑顔が戻り、歓迎の意を伝えていた。
後日、千鶴がトマの研究所を訪れることになる。初めて見る純人に興味津々の研究者たちから質問攻めにされることになるが、今の彼女にはそれを予測することができなかった。




