第20話
王はエルネストを伴って訪れるものだと千鶴は思っていたが、その予想は外れた。入室したのは王とビセンテの二名で、その表情はいつになく硬い。
ビセンテは無言で一礼すると、いつかのエルネストと同じように壁際に立った。
王直属の騎士であるビセンテだが、影で動く彼が表立って王と共に行動することは滅多にない。しかし、それを知らない千鶴は、いつにない彼の様子を不思議そうに一瞥する。
今日のビセンテはエルネストと同じように無表情を貫いており、彼女と視線を合わせるようなことはしなかった。護衛は主の邪魔をしない。それを理解し始めていた千鶴は、ここで考えることをやめた。
「……こんばんは。チヅル」
「こんばんは。ロドルフさん」
千鶴が練習に練習を重ねた礼は、今ではなかなか様になっている。
王は恭しく跪き、すくい上げた右手に口づけを落とした。その行為に慣れない千鶴は、照れもあって早く距離を置こうと手を引く。しかし、王の手は千鶴のそれを離そうとせず、痛くない程度に握りこんでいだ。
そのまま千鶴を椅子までエスコートすると、以前と同じように給仕してから席に着く。
そして、王はゆっくりと話し始めた。
「わたしが言わんとしていることは、分かるだろうか」
「……獣人のこと、でしょう?」
単刀直入で射貫くような千鶴の言葉と視線を、王は真正面から受け止めた。彼は「そうだ」と言ったきり黙り込む。
千鶴は先を促すでもなく、静まり返った部屋でお茶を静かに飲むことに集中した。食器の接触音を小さめに抑えたところまではよかったが、お菓子を咀嚼する音がやけに耳に響く。ごまかすように再びお茶を飲み、カップをソーサーに戻したとき、王が千鶴の名を呼んだ。その瞳に、迷いはなかった。
「どのような理由があったにしろ、わたしたちはチヅルを欺こうとした。これは事実だ。君の慈悲深さに救われた。感謝してもしきれない。恐らく、いや、確実に獣人と純人の違いで苦労をかける。だが、我々はチヅルに不利益がないようにすると、改めて誓おう」
千鶴の瞳からは怒りも悲しみも感じ取れなかった。ただ静かに王の言葉に耳を傾けている。
一挙一動を見逃すまいと、王は膝に置いた拳をぐっと握りしめた。
最初に王と千鶴が会ったとき、王は「誠心誠意説明する」と言ったが、「すべてを話す」とは言っていない。
察しがいい千鶴は、その時点で語られないことがあるのではないかと思っていた。すべてを話さなくていいと言ったのは千鶴自身で、王を咎めるつもりは毛頭ない。
国王としての立場があるロドルフは、千鶴に真正面から事実を告げることはできなかった。表向きは伝説通りに秘密を守るようエルネストに指示をして、周囲もその言いつけを守っていた。しかし、個人的には千鶴との約束を守ろうとした。その結果、ビセンテが単独でその任務を遂行することになった。
これが、事の顛末だった。
懺悔するように語られた内容に、おおよそ予想通りであると千鶴は冷静に反応した。
彼女の様子に、王は表情を歪める。
すべてを受け入れているように見える千鶴は、聞き分けのいい子どものようにも冷静な大人のようにも見える。しかし、異なる世界へ召喚され、一年間も軟禁され、やっと外に出られたと思えば、周囲にいるのは同族ではなかった。怒鳴り散らしても、泣きわめいてもおかしくない状況にも関わらず、千鶴はそれをしない。落ち着きがあると一言で表すには達観しすぎている。
「チヅルは、冷静すぎるね。とても聡く、理解が早いのは助かるが……たまに、心配になる」
脱力したようにぽつりと呟かれた王の言葉に、千鶴は苦笑して答えた。
「……もう、報告を受けていると思うけど」
千鶴は、ビセンテやエルネストにしたように、自身の身の上を話し始めた。どの世界でも求められているのは肩書だけで、それは自分でなくてもいいのだと思い知らされた気がしていたことを。
「聖女の謎が解けたとき、少しだけ安堵したの。でも、それと同時に怖くなった。この世界に、一人ぼっちにされた気がして。でも、あの屋敷を出て、ロドルフさんたちに名前を呼んでもらえて。聖女じゃなくてもいいって、言ってくれた。人間……純人であることはもう変えられないけど、肩書のないわたしを認めてもらえた。元の世界で言われたかったことを、言ってもらえたの」
千鶴の言葉を聞き逃すまいと、王は彼女から視線をそらさない。それに気づいた千鶴は「そんなに見つめられたら照れます」と頬を赤らめ、ごまかすようにお茶を口に含んだ。
「ロドルフさんも……王様じゃなかったら、きっと自分の口から教えてくれていたでしょう?」
王は少し寂しそうに「そうだね。本当は、そうしたかった」と言った。
千鶴という純人の存在は、獣人にとって青天の霹靂だった。丁重にもてなすつもりが、狂信者によって台無しにされた。一年後、やっと王宮に迎えることができたが、頼れるものは伝説しかない。たった数行書かれている書物の通りにするしかなかった。
こんなにも先祖に憤ったことはないと、王はぽつりぽつりと語る。
その姿は、絶滅種の飼育方法が分からず、頭を抱える飼育員のようだと千鶴は思ったが、さすがにこの場にはそぐわない例えだと、それを口にすることはなかった。
心地よい静寂が二人を包み込む。
しばらくして、王が躊躇いがちに問いかけた。
「伝え方はビセンテに任せていたが、少々……いや、随分と荒々しい方法だったのではないか? エルネストの姿を、見たのだろう?」
先日の夜のことは王にも報告されていたが、あの姿を見せるという伝説に背いた手荒な方法に、さすがの王も驚きを隠せなかった。いくら二本足で立って言葉が話せるとはいえ、外見は獣性が勝る。獣人の体格にも男女差や個体差があり、その中でもエルネストは体格がいい方だ。
ビセンテからは千鶴の心臓には毛が生えているようだと報告を受けていたが、にわかには信じがたい。
心配そうに千鶴を覗き見る王を前に、彼女はあっけらかんと答えた。
「見ました。さすがに驚きましたけど……大きな犬みたいで可愛かったです」
そのとき、乾いた音が部屋に響いた。
千鶴がきょろきょろと周囲を見渡すが、なにもおかしな様子はない。空耳だったかと居住まいを正した。
その実、壁際に立つビセンテが口元を手で覆っていたのだが、瞬時に元の姿勢に戻っていたため、千鶴に気づかれることはなかった。
一方の王も、彼女の言葉に口元が歪むのを隠せない。お茶を飲むふりをしてその場をどうにか切り抜けた。
「……そうか。可愛かったか」
「はい。あの、男性に可愛いはまずかった?」
「そういうわけでは……。ただ、あの姿を見て可愛いと言う者はなかなかいない。顔も鋭くなるし、体も大きいだろう?」
そういうものかと、千鶴は曖昧に頷く。
千鶴がお茶を飲んでいる隙に、王とビセンテは視線を合わせてにやりと笑い合った。彼らは千鶴に一つ訂正しなければならないことがあったが、これは本人の口から言わせることにした。
エルネストは犬ではなく、狼だと。
千鶴から犬と言われる彼を想像して、再び口元が歪む。その場に居合わせたいものだと、両者は悪い笑みを浮かべた。




