第16話
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「え……?」
にわかには信じがたいことが、千鶴の目の前で起きていた。
彼女の目線の先に、人の姿はなかった。
全身を覆う白銀の豊かな毛並み。切れ長の目。垂れ下がった長い尻尾に、大きな耳。顔の形も獣のそれで、人と同じところは手の形くらいだった。そこにある爪は鋭く、突き立てられたら確実に引き裂かれてしまうだろうことは容易に想像できる。
人の姿はない。
代わりに、二本の足で立つ獣がいた。
突如として現れた獣と、忽然と姿を消した人。
もしかしなくても、この服装は――。
「エルネストさん、ですか?」
呆然と呟いた千鶴に、ビセンテはたった一言、簡潔に答えた。
「ご名答」
うなり声のようなくぐもった声に、千鶴ははっとする。エルネストだという獣の方を向くと、彼の鋭い視線がわずかに揺らいだように思えた。
「すべて、ご説明いたします」
獣の姿でも言葉を話すことができるのかと、このような状況でも――このような状況だからなのか――千鶴は妙に冷静だった。
「ご覧の通り、これがわたしの本来の姿。獣人と呼ばれる存在です」
「獣人……」
「はい。聖女であるチヅル様は、純人と呼ばれています。獣の血が混ざっていない、純粋な血統の持ち主でいらっしゃる。獣人である我らにとって、尊い存在です」
「この国は、獣人の国ということですか」
「……はい」
エルネストは努めて淡々と話す。
この世界には獣人と呼ばれる者たちが暮らしていること。
過去、進化した獣と純人が交わり、身体能力に長けた獣人が生まれたという言い伝えがあること。
「獣と、人が」
「進化した獣が純人のように二足で歩き、自我を得て言葉を操るようになったと」
「では、獣人が誕生する前は、純人も多く暮らしていたということですか?」
「遥か昔のことで、書物に記されている程度の情報しかありませんが……」
かつては純人も数多く存在していたと言われているが、屈強な獣人と比べて体のつくりが脆い純人は徐々に数を減らし、ついには絶滅した。また、純人と獣人が交わると、必ずと言っていいほど獣人が生まれることも純人が数を減らした要因の一つとされている。純人と獣人の間に純人が生まれる確率は、それこそ奇跡的なものだと。
「これは推測の話です。そもそも、本当に純人が存在したという確証がありませんでした。誰も純人を見たことがなく、残されている書物も極めて少ないためです。純人は、獣人がつくり上げた空想上の存在だと言う者さえおりました」
千鶴の頭の中を「絶滅種、ついに発見!」というテロップが駆け巡った。ここが元の世界であれば、テレビでは速報と特別番組が放送され、自身の姿が大々的に映し出されるであろう。学者が興奮気味に事の重大さを語る姿まで想像できる。
シリアスなシーンにそぐわないその自身の妄想に、千鶴は一気に体の力が抜けた。
しかし、ここで初めて聖女の謎が解けた。
聖女というのは、純人の女性を指すという。種族の違う獣人の子どもを慈しんでくれる、存在そのものが奇跡だと。
何度も使われる奇跡という言葉に、千鶴はどこか違和感を覚えた。自分の存在が奇跡だと言われることの方が奇跡だ。
元の世界で言葉を操ることができるのは、全員が人だ。人であることが常識だった。人混みの中に千鶴がいようが、誰も気にする者はいない。それは、大海原に一滴の水を垂らすようなもの。しかし、この世界は違う。一滴の水だったはずの千鶴は、この世界では周囲に溶け込むことができない存在になってしまった。
奇跡は、同時に異質を生み出した。
この世界でたった一人の異質な少女は、初めて自分の存在を恐ろしく思った。
「ちなみに、純人だと判断した理由はなんですか? なにか特徴があるんでしょうか」
「香りだよ」
その問いに返したのはビセンテだった。彼が部屋に来てから、千鶴は何度かその言葉を耳にしている。
「チヅル姫からは、いい香りがするって言ったでしょう?」
「どうして、それが純人の香りだと判断したんでしょうか」
「ああ、言い方が悪かったね。チヅル姫は、僕たちとは違う香りがするんだ」
それは、千鶴が求めている答えとはどこかずれていた。
「質問を変えます。香りが違うからといって、純人だと判断するのは安易ではありませんか? 過去に絶滅しているのであれば、比較対象がいません。それなのに、判断理由が香りというのは、納得できません」
「……正直なところ、僕たちにも説明できない」
困ったように笑うビセンテの言葉は、どういう意味なのか。視線で先を促すと、彼にしては珍しく言葉を探しながら口を開いた。
「僕たち獣人は、種族によって差はあれど鼻が利く。聖女伝説に、『すべてのものが跪く香りを纏わせながら』とあるのを覚えているかい? あれは、脚色でもなんでもない。君の香りが、本当にそれだけ魅惑的なんだよ。獣人ではないチヅル姫に、この香りを説明するのは難しいけれど」
過去に存在した純人の香りは、当たり前だが獣人にも分からない。純人の身体的特徴は、普段の獣人たちと同じであるとされており、どのように違いを判断していたのか、獣人たちの間でも解明されていなかった。しかし、千鶴の出現により、獣人たちは確信した。これが純人の香りであると。なぜ、過去に獣人の男たちが純人の女性を求めたのか、今であればよく分かる。
「お香を焚く理由は魔除けのためだと。チヅル姫は、そう聞いたと言っていたね?」
ビセンテの話はいつも唐突だった。
会話の意図が読めずにぎこちなく頷くと、彼は「魔除けというのは、半分正しい」と言って、お香の煙が燻る方を見た。
「半分?」
「いや、これも言い方が正しくないな。これは、チヅル姫から出る香りを消すためのものだ。魔除け改め、僕たち獣人除けってこと。ちょっとそれっぽい言い方で君を納得させていたけど、つまりは虫除けだよ」
「虫除け……」
「チヅル姫のいい香りにあてられた獣人たちが、我を忘れて君を求めてしまうかもしれない。それを防ぐためのものだ」
それは、蚊に刺されないように蚊取り線香を焚くのと似ている。
普段は理性的な彼らも、本能に従いたくなるときがある。
それが、獣人の性だ。
「チヅル姫の香りは、ときに獣人を狂わせる。満月の夜は、僕たちの獣としての本能が一番強くなるんだ。城勤めをしている者は訓練しているから、いきなり体が変化することはない。でも、今日のチヅル姫の香りは、いつもより強くなっているから」
「え?」
その言葉の意味を、千鶴はすぐに理解できなかった。
「エルネストは訓練しているから、通常であれば満月の夜でも問題ない。さっきまでは大丈夫だったでしょう? でも、今日はチヅル姫が月の巡りの最中であることと、本能を刺激するお香を焚いたことによって、いつもの姿を維持することができなくなってしまった」
「どうして、月の、あの」
淡々と語られるビセンテの言葉に、千鶴は遮るように問いかけた。驚きのあまり最後まで言うことはなかったが、それでもビセンテは彼女がなにを言わんとしているか理解していた。
「……今、言ったでしょう? 僕たちは鼻が利くってね。血の匂いは、僕たちを狂わせる」
ビセンテは明言こそしなかったが、つまり、千鶴が月経中であることを黙っていたとしても、彼ら獣人には筒抜けだということだ。
衝撃の事実に、千鶴は気が遠くなる。それを心配そうに見つめるエルネスト。ビセンテは「さっき、いい香りがするって言ったでしょう?」と、なんでもないことのように言い放った。
「……じゃあ、伝説の、月が満ちる夜には聖女を隠せ、というのは」
「そう。万が一にも、このような姿になっている獣人を聖女に晒して、驚かせるわけにはいかないからね」
このようなと言いながら、ビセンテはエルネストを見やる。エルネストはそれに眉をひそめたが、次の瞬間には千鶴を気づかうように俯いた。
次々と紐解かれる謎に、千鶴は気が抜けたように「はあ」と返事をするしかなかった。
人は、驚くと妙に冷静になれる。
千鶴の鼓動は、不思議と落ち着いていた。
ネタバレ回でした。