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第10話

 

 千鶴が王宮で暮らし始めて半月が経った頃、王が選出した家庭教師と対面することになった。


 その男の名前はトマ=ルヌヴィエ。王都で学者をしている。


 千鶴が知る限りではあるが、この国の住民は背が高い。トマも例に漏れず高身長で、白衣からのぞく腕や本をなぞる指はすらりと細長い。

 王やエルネストとはまた違った雰囲気を持つ男だった。


 堅苦しい挨拶をしたのは最初だけで、それ以降は千鶴の望むように接してくれる。さすがに呼び捨ては渋られたが、自分は生徒なのだからと説き伏せる。

 根負けしたトマは、彼女を「チヅルさん」と呼ぶことで折り合いをつけたのだった。




 何度目かの授業の日。


 トマの知識は大変豊富で、どの話も千鶴を退屈させることがなかった。元々勉強が嫌いではない千鶴は、彼の授業を毎回楽しみにしていた。

 授業といっても雑談が圧倒的に多かったが、それを咎める者はいない。


「トマ先生」

「なんでしょう、チヅルさん」

「トマ先生は、学者さんでしょう? 専門としている分野はあるんですか?」


 トマが千鶴に教えたのは、国の歴史、身分制度、産業などの堅苦しいものに限らず、日常生活の知恵や女性に人気のお菓子、果ては市場のお買い得情報まで多岐にわたる。

 また、文字や語学にも精通しており、千鶴の母国語にも興味を持っていた。千鶴は日本語で話しているつもりだが、この国の住民にはジェルヴェーズ語で聞こえているのだという。それを彼に伝えたところ、解明したくて仕方がないといった様子だったことは記憶に新しい。


 千鶴の問いにわずかに目を見開いたトマは、「専門ですか」と呟いたあと、少しだけ考える素振りを見せた。それは千鶴が疑問に思わない程度の間で、興味深げに見つめる瞳に笑みを返した。


「……わたしの専門は、薬学です」

「薬の研究をしているんですか?」

「はい。チヅルさんは異なる世界から来ておられますので、我らが飲む薬が効くかどうか分かりません。これも研究しなくてはなりませんね」


 トマはそう言って笑みを深めたが、それ以上なにかを言うことはなかった。千鶴も深追いせず、トマの言葉に「先生は専門分野以外も博識なんですね」と感心した様子だった。






「雑談はこのくらいにして、授業の続きをしましょう。ね、チヅルさん」


 随分とわざとらしく話をそらしたものだと、トマは心の中で自嘲した。

 

 机の下で無意識に握りしめた手には汗が滲んでいたが、千鶴に気づかれないように行儀悪くスラックスで拭う。

 理由はどうであれ、授業を再開しようと思っていたことには変わりない。トマの心臓はわずかに駆け足になっていたが、それを笑顔で隠した。


 千鶴は、いつも通りに見えるトマに慌てて謝罪する。


「そうですね、すみません。先生とのお話しは楽しいから、勉強以外のこともたくさん聞きたくなっちゃうんです」

「かまいませんよ。勉強だけがすべてではありません。会話から学ぶことも多いですから」


 トマが手に取った本の表紙には、「聖女の御渡り」と書かれている。先日、王から説明してもらったときにも見たその本を、千鶴は部屋から持参していた。


 授業の場所はその日の気分により変わり、今日は書庫で行われている。

 扉は開かれていて、騎士たちは千鶴から見えない場所で控えている。気が散らないようにとの配慮だった。


「聖女って、結局どういう存在なんですか?」


 トマがおもむろに開いた本を千鶴が覗き込む。古語と現代語で書かれている文字を指でなぞった。


「聖女様が子孫繁栄と幸福の象徴だということは聞いていますか?」

「王様から聞きました」


 千鶴は王から聞いた話を覚えている限り話すと、トマは「王の話が聖女様のすべて。わたしもそれ以上のことは知らないのです」と言って、申し訳なさそうに顔を歪めて謝罪した。 


「謝らないでください。伝説なんてそんなものです。でも……わたしがこの国に来たことは事実なんですよね」

「そうです。わたしは国儀に立ち会っておりませんが、聖女様が……チヅルさんが召喚の間に現れた瞬間、誰もが息を止めたそうですよ」

「そんな……」


 千鶴は大袈裟だと言いかけたが、伝説の存在が目の前に出現したら、自分もきっと呼吸を忘れて見入るだろう。口を噤み、改めて本を見る。読み返したその一節が、なんとなく目に留まった。


「……わたしから、いい匂いってしていますか?」

「え?」

「ここに『すべてのものが跪く香りを』って書いてあるじゃないですか」


 千鶴は本を指差して続ける。


「黒目で黒髪っていうのは分かるんですけど、魅了する笑みは脚色ですかね? なんで、月が欠けている夜だけしか許さないんでしょうか。そもそも、なにを許すのかしら……」


 千鶴が考え込んでいると、ノックの音が響いた。千鶴とトマが顔を上げると、扉の前に立つエルネストが略式の礼をとる。


「授業中に申し訳ございません」

「どうかしましたか?」

「トマ殿、研究所より急用との知らせがございました。すぐにお戻りになられた方がよろしいかと」


 トマは王宮近くにある研究所で所長をしている。それなりに忙しい身分であるにも関わらず、千鶴のために結構な時間を割いていた。

 エルネストの言葉に、千鶴は「今日の授業はここまでですね」と言ってトマを見る。


「……チヅルさん、途中なのにすみません」

「いえいえ! 忙しいのにいつもありがとうございます」

「とんでもない。それでは、次回の授業でお会いしましょう」

「はい。今日もありがとうございました」


 片付けをしている千鶴に背を向け、トマは扉に向かって歩く。エルネストと目線を合わせることなく、その横を通り過ぎる。ほんの一瞬歩く速度を緩めたトマが、小さく口を動かした。


「……助かりました」

「いえ」


 小さな声と短い言葉。

 それが千鶴の耳に届くことはなかった。










 その夜、千鶴は一冊の本を手に取った。


 何度も読み返した聖女の御渡り。この本には余白が多く、ページのほとんどが真っ白だった。しかし、今日に限って何気なく文字の最後から数ページの余白をめくる。

 その行為に意味はなかった。


 最後までめくり終えたところで、不自然に切り取られたページがあることに気づく。よく見なければ気づくことがないであろうそれに違和感を覚えながらも、ちょうど訪れた眠気には勝つことができず、小さく欠伸をする。


 ここで、彼女は考えることをやめた。






 小さな違和感が蓄積されていることに、彼女はまだ気づかない。




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