第2話 女子高生、吉沢雅
時間は三時間程遡る。昼を過ぎ、陽が徐々に傾き始めた頃である。
ゴールデンウィークを分割するように存在る平日。連休前と何も変わらない時間がゆっくりと流れ、その日も日常を刻み続けていた。
「雅さん。吉沢雅さん」
雅と呼ばれた少女は、いつもと変わらず終業チャイムと同時に教室を出て、昇降口に向けて廊下を歩いているときに呼び止められた。その方を見やると、暗い色合いのパンツスーツを着こなした女性がいた。
「どうも千秋さん。学校の中で話しかけるなんて珍しいですね」
その女性は神楽千秋といい、身体の事情により親元を離れて暮らすことになった雅の保護者であり、また雅が通う私立高校の理事長をしている。元々はこの学校の教員であったのだが、学校を運営している学校法人が事実上神楽家の同族経営であり、先代の急死により急遽神楽家当主と理事長の役職を引き受けることになったらしい。本人は「形だけの理事長」と言っているが、客観的に見れば三十三歳で学校理事長は異例と言える出世であった。
「服装のことですか?」
「うん……まあ、自覚しているなら直しなさい。私も教育者として、生徒の生活指導をしなければならない立場だから、あんまり困らせないでね」
「仕方ないですよ。今日はなんだが暑い日だし、上着を脱がずにはいられない」
「ならジャケットを脱ぐ前に、そのパーカーを脱ぎなさいな」
千秋の表情は笑顔だったが、内面では明らかに怒っていた。
というのも雅は、制服の上に薄い色のパーカーを羽織っていた。いつもはその上に学校指定のジャケットを羽織っているのだが、今日は雅の言う通り気温の高い日であったため、雅はジャケットを脱いでパーカー姿で学校生活を過ごしていた。
「それと背中と首と耳。鞄はリュックじゃなくて学校指定の鞄を使うように。通学時に音楽を聞くなとは言わないけど、せめてヘッドホンじゃなくイヤホンみたいに容易にしまえるものを。ピアスは論外」
千秋はこれを機に怒涛の勢いで雅の服装を指摘するが、
「千秋さん。小言ばっかり言っていると小じわが増えるよ」
当の雅は意に介することもなく、むしろ千秋を逆撫でするようなことを言う。それを耳にした千秋は、案の定表情を引きつらせた。
「で、千秋さんがわざわざ身嗜みを注意するためだけにワタシを呼び止めたわけじゃないでしょ。他に用件があったのでは?」
それでも飄然としている雅だが、これ以上千秋が怒ると面倒なことになりそうだと察し、会話の方向性を変える。
「そうね、ちょっと頼み事があってね」
そう言われ、千秋は本来の目的を思い出したのか、表情を引きつらせつつも本題に入った。
千秋は多忙だ。現在は教壇に立つことがなくなったため校内ではたまにしか見かけないし、激務で雅に構っている暇もなく、学校での会話は一切なかった。そんな人物の頼み事であるので急を要するものだと雅は思ったが、
「夏景兄さんからこれを届けるように頼まれたの」
ただのお使いだった。
夏景とは千秋の実の兄であり、成人してすぐに家を出ていてしまったため、神楽家から半ば勘当された人物である。ただ兄妹間の繋がりだけは継続されており、雅も面識のある人物だった。
「また、あいつの頼み事ですか」
雅は夏景に対して敬うことをしない、敬意とは無縁の関係だった。というのも、雅が遭遇する厄介事は常に夏景の方から舞い込んでくるからだ。今回も面倒な騒動に巻き込まれそうな気配がして、雅は内心うんざりして溜息をつきそうになった。
「雅さんのその気持ちはよくわかるよ。私が家督を継ぐまで、その役割は私だったから」
千秋は雅の心情を察し、同情してくれた。しかし実の兄の要件をさっさと済ませたい千秋は、同情しつつも抱えていた紙袋を徐に差し出した。どうやらその紙袋が夏景の頼み事であるらしい。軽々と扱われるそれを雅は受け取ろうとするが、それは片手だけでは支えることのできない程、重量のある物であった。雅は両の手で受け取る。
「中身を開けていないからよくはわからないけど、本みたい。何冊か入っているみたいで、多分何かの辞書が入っているんじゃないかな?」
千秋の推測に雅は頷く。一番重い本は一般的な辞書程の厚さではない。精々その半分位の厚さしかないだろう。しかしそれと同梱されている数冊の本の重さが加われば、やはり辞書以上の重さになってしまう。
「これをどこに運ぶのですか?」
雅は胸の前で抱きかかえるように持ち直し、送り先を尋ねた。千秋は胸ポケットから紙片を取り出し、両手が塞がった雅に見せる。
「ここから電車で数駅行ったところの総合病院みたいだね。そこで入院している人に届けるらしい」
紙片には、病院名と住所のほか、入院患者の名前と部屋番号などの情報が事細かく書かれていた。
「行けそう? 場所わかる?」
「大丈夫ですよ。いざとなればスマホで調べられます。それにしても、どうして夏景は自分で行かないんですかね? 正直、知らない人のお見舞いは結構ハードル高いような気がしますけど」
至極もっともなことを雅は口にした。そもそも見知らぬ人物が、ちゃんと受付を抜けて病室までたどり着けるのかさえ怪しいものだった。
「兄さんは仕事が外せないみたいなのだけど、どうしても今日会って渡さなきゃいけない物らしいの。だからお願いするね、って朝突然現れて軽く言われてしまったのだけれど、多分兄さんより私の方が忙しいはず。時々兄さんが何を考えているかがわからないのよ」
奇行の夏景。何を考えているかわからない故に厄介事が舞い込んで来るのか、はたまた厄介事を抱えている故に他人からは何を考えているのかわからないのか。夏景という人物は鶏が先か卵が先かの話に似ていて、ようとしてその存在がわからない。
ただあえて言うなら、あの男が神楽家の家督を継がず千秋が継いだことは、家の舵取りとしては最善だったのかもしれなかった。
「でも安心して。病院には来訪者が来ることを連絡しているみたい。兄さんの名前出してちゃんと身分を明かせれば入れると思うよ」
「そうですか。まあ……あまり気が乗りませんが、一応行ってみます。で、そのまま家に帰りますよ」
知らない人だけど、会って荷物を渡すだけ。雅は自分にそう言い聞かせ続けた。
「ごめんね。いつも兄さんのことで振り回しちゃって」
雅は「気にしないでください」と言いつつ、ちゃっかり夏景のことを呪っていた。
「まあこれで、身嗜みのことはなかったことにしてください」
「それはまた別の話でしょ」
千秋はそう言いつつ呆れたが、
「でも、あなたの今の立場上、私はあなたに対して強くものを言うことはできないからね。大人として最低限言えることは、人様の迷惑になるような言動は慎むように、くらいかな」
千秋自身雅の扱いに思うところがあるようで、雅の身嗜みの件は黙認されることとなった。




