表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

怪獣の花


 物語の書き始めというものは、実は一番書くのが難しい。

 作品全体のスピード感とか、作風といった、イメージを膨らませるための第一印象。いわば、物語の自己紹介なのだから当然だ。

 ここは、突拍子もなく突然騒動の中から始めようか。

 それとも、この世界が生まれた起源からにしようか。


 ダメダメ。そんなの、このお話にはテーマが重すぎるよ。


 これは僕が経験したことの覚書のようなもの。そんな大ごとから始める必要なんてどこにもない。


 ただ、どこにでもある、ありふれた。

 そういう、お話なのだから。




 僕の名は坂田(ばんだ)(あゆむ)。サカタってよく間違われるけれど、バンダ。まあ、そんなことはどうでもいいか。

 正直に言って、わざわざ名乗るほどでもない、普通人間なのだけれど。これはそんな、取柄のない僕が主人公の物語。


 僕は身長もそんなに高くないし、顔が整っているわけでもない。運動も勉強もそこそこで、特別得意なことも思いつかなければ、負けん気や勝負強さがあるわけでもない。ホント、自分で言うのもなんだけれど、何一つとして取柄がない。

 でも、こんな僕にだって、一応趣味くらいはある。他愛のないことだけど、なんていうか、まだまだ人生序盤の今の僕にとっては、これでも生き甲斐って呼べるものかもしれない。

 僕の趣味、それは絵を描くことだ。とりわけロボットやヒーローなどが大好きで、独学で漫画を描いたりもしている。もしかすると“特技”って言えるくらいの事なのかもしれないけど……でも、そのことで他人と話すことはあまりなかった。

 好きなことを伝えるには、どう言葉にすればいいのかわからなかったし、それをどのタイミングでカミングアウトすべきかもわからなかったから。

 それに、こんな幼稚な趣味を持っているなんて、皆から馬鹿にされるに決まっているし。

「……」

 内気で友達が少ない僕だが。そんな僕でも、甘酸っぱい恋心という物は感じるらしい。

 青春と呼べる程大した事ではないよ。ただ遠目にみるだけという、一方通行の気持ち。これがまた、何かと複雑な欲求不満を起こして、僕の胸を苦しくさせるんだ。


 ちょうど、三限目が終わった休み時間。

「ねぇねぇ雪波(ゆきなみ)さん」

 僕が数学のノートの隅にロボットの落書きをしていると、教室に一人の女子の声が響いた。

「雪波さんって、今度、有名な生花の大会に出品するんでしょ? すごいよねー」

 ふと見れば、数人のクラスメイトが集まって、一人の生徒の席を囲んでいる。

 その中心にはいつも、彼女……雪波あやかさんがいた。

 僕の憧れであり、同時に最も遠い存在でもある。彼女が同い年なんて、何度考えても信じられないくらいだよ。

「ええ。でも、まだまだ先のお話ですわ」

 にこやかに、そして清楚に微笑むその横顔は、窓から入り込んだ光を反射して、きらきらと光って見えた。

 細すぎず、角ばってもいない、たまご型の輪郭。

 小さく、それでいてすっと伸びた鼻。

 少しつり目で、まつ毛がはっきりしているぱっちり目。

ふわふわウェーブのロングヘアーから真っ直ぐ下ろした前髪が、ちょっと長めの眉毛をうまく隠している。

「雪波さん家って、華道の名門なんでしょ? 絶対優勝間違いなしだね!」

「いいえ、そんな……。わたくしなんて、まだまだ未熟者。家名におごってはいられません」

 丁寧な口調に穏やかで凛とした物腰。少し細身の背はぴんと伸びて、実際よりも随分と身長が高く見える。

 とにかく、なんというか、「美しい」という言葉が似合う人だった。こういうのを、美人って言うのかな。センスのない僕には、特別な表現方法なんて思いつかないや。

「へぇ、雪波さんって生花とかやってるの? じゃあ、私に教えてくんない? 興味が沸いてきたんだけどっ」

 別の女子が雪波さんに話しかける。

「あら。それは良いですわね。家では指導教室も行っているので、是非、見学に来てください」

「あっ。あたしもあたしもーっ。でも、どうせなら雪波さんに直接教えてもらいたいなーっ」

「うふふ。わたくしなどより、父や他の先生方に教えてもらったほうが、ずっと早く、そして美しく上達できますわ」

 クラスメイトに向かって顔を向けた雪波さんは、「でも。」と、どこか奥ゆかしく続ける。

「お気持ちはとても嬉しいです、ありがとう。今日も華道部で活動をする予定ですから、もしお暇であれば、遠慮なく見学に来て下さいね」

 ふふふ、と雪波さんが微笑んだ。

 …………。あまりに完璧すぎて、僕は目を離せなくなった。

 もし、あんな女性と付き合えたら。いや、せめて話しだけでもできれば……。僕は……きっと心の底から喜びに満たされるんだろうなぁ。……はぁ~……。

「なぁなぁ、お前ら。雪波と何話してんの?」

 どん。と、後ろを通ったクラスメイトに椅子を蹴られた。きっとわざとじゃなくて、当たっただけなのだろうけど、彼は悪びれもせず、振り返ることもなく、雪波さん達の会話に入り込んでいく。

 彼の周りの世界には、僕なんて存在しないようだった。

「うん、雪波さんがねー」

「へぇ、そう。そりゃあ凄いじゃん」

 近づいて行った男子生徒は、これと言って嫌がられている様子もなく、そのままとけ込んでしまった。……みんな、器用だよね。僕にはあんな芸当をこなす自身がない。女の子と喋るどころか、隣にいる気配や視線を感じただけで、緊張してどもってしまうのに。

ああ、やっぱり。僕なんかが、雪波さんと付き合うだなんて、馬鹿なことを考えちゃダメだよね。きっと、話しかけることすら許されない。すぐ近くにいるけれど、彼女はずっとずっと遠くの存在なんだ。

「……」

 高嶺の花。まさに、雪波さんはそういう人。僕だって、それくらいは理解している。

 そもそも、華道の名門の長女と、極々一般的な家庭の一人息子である僕とでは、その差は絶望的なほどに大きく、そしてやっぱり遠い。

 試しに手を伸ばしてみるどころか、あまりの遠さに霞んで見えるほどに。

「……はぁ……」

 そんなことを考えると、自然とため息が漏れた。

 その時。

「……?」

 僕のため息が耳についたのか、雪波さんがこっちを見た。

 目が、合った。

「っ」

 僕は突然の小さな幸せに驚いて、手元のノートを落としてしまう。

 バサリ。適当に書いていた女の子型ロボットの絵が、あろうことか上を向いて床に落ちた。

「あっ」

 僕は慌てて広い上げ、机の中に隠す。

 見られた。きっと、僕の恥ずかしい趣味を。あの絵を……見られてしまった。

 皆の視線が気になって、どうしようもなく恥ずかしくなって。僕は、逃げるように席を立つ。

 教室から出ると、ちょうど教室を目指して歩いてきていた英語の先生とばったり会った。

「おや? どうした坂田。もうすぐ授業始まるぞ」

「ご、ごめんなさい。ちょっとトイレに……」

「そうか。急げよー」

「は、はーいっ」

 ああ、もう。今日は最悪の日だ。

 僕はその日一日、ずっとうつむいて過ごした。



「……って事があってね」

 放課後。空き教室を借りた将棋同好会の活動の中で。

僕は数少ない友人である左藤(さとう)竜司(りゅうじ)に、今日の出来事を語った。

「そりゃあ、災難だったな、歩」

「うん。もう……。明日から馬鹿にされたらどうしよ……」

「別にいいじゃんかよ。お前、絵上手いんだし。むしろ女子から「坂田クンって絵上手いんだねぇ~」とか声かけられっかもよ?」

「か、からかわないでよ。そんなわけないじゃないか」

「そう謙遜すんなって。なっはっは!」

 豪快に笑いながら、竜司が駒をパチンと打ち鳴らす。

「8八飛車、角取り。王手だ」

 竜司がどや顔であごに手を当てた。

「えっ?」

 僕は、竜司の言葉に驚いて、盤面に目を移す。

「そこ?」

「ああ。どうだ、俺もちょっとは上達……」

 パチン。

 竜司が言い終わる前に僕が手を打つと、竜司は目をぱちくりさせ、口を半開きにして盤面を見下ろす。

「8八桂馬、成り。香車が利いて、今取った飛車があるから……これ多分、あと二三手で詰むよ?」

 竜司の視線が固まった。

「……。……あ……」

 竜司もようやく、打ち損じに気付いたらしい。

「待っ……!」

「待ったなし。一応、同好会だからね。そこは遊びじゃなく、本気でやんないと」

「えぇ~いいジャンよ~、どうせ俺らしかいないんだしさ」

「幽霊部員とは言え、部長さん忘れちゃダメでしょ」

 まぁ、幽霊部員の部長というのもどうかと思うが……。それくらいが緩くて、僕にはちょうどいいのかもしれない。

「くっそぉ~。なんか楽そうだから入ったのに。こうも負けばっか続くとさすがに辛いぜ」

「あはは。楽そうって……。顧問の先生聞いたら怒るよ?」

 事実、僕だって同じような理由で入ったわけだけどね。ひとまず入部するだけしておけば、運動部からの執拗な勧誘にもあわなくて済むし。近所であってる大会だって、お年寄りや本気でやっている年下の子どもばかりが集まるから、気軽に参加しやすいもん。

「聞いてないから大丈夫さ。ってか、ほとんど来ないし?」

 一方、竜司の方は、というと。

「それに、ここで負ける分、剣道の方でストレス発散してっからな」

 実は彼、剣道部も兼部しており、中でもかなりの実力者らしい。でも、毎日の練習が面倒で、ズル休みするために将棋同好会に入ったのだとか。

 実力があるから許されるんだろうなぁ。あーあ、才能を持っている人って羨ましい。

「あ~。なるほどね」

 動機は不純かもしれないが。そのおかげで僕にも腹を割って話し合える良き友人が出来たのは事実だ。

「っつーか俺さ、お前に勝つためにゲームまで買って練習してんだぞ。……一番弱いコンピューターにすら勝ててないけど」

 いじけた竜司が、盤面に駒を立てて並べ始める。

「あー。あれ強いよねぇ。やっぱり同好会って言っても部活なんだし、もっと本気で型とか勉強しないとダメなのかなぁ?」

「え? いや、そこまではいいんじゃね? もっと気楽に、のんびり行こうぜ? それじゃなきゃ俺、嫌だ」

 そして、並べた駒の端を指で弾き、ドミノのようにカタカタと倒した。

「こらこら。遊び方、違うでしょ?」

「いやいや、お前もやってみ。案外難しいんだぜ、コレ。それにほら、崩し将棋って遊びもあるじゃん? ルールに縛られっぱなしはよくないぞー。世の中大事なのは想像力と発想力だよ」

「竜司にそれがあったら、将棋もっと強そうなもんだけどなぁ」

「な、なにおうっ……なっはっは、その通りかもなっ」

 そんな他愛ない会話を続けていると、廊下から足音が聞こえてきた。

 誰だろうと気になって、ふと、竜司の後ろに視線を移す。

「……あっ……」

 開けっ放しの教室のドアから、雪波さんの横顔が現れた。

 僕は慌てて竜司の影に隠れる。やっぱり、あんなことがあった後じゃ恥ずかしいよ……。

「……うん?」

 そんな僕の行動をおかしく思ったのか、竜司が振り返り、そして「ふぅん」とイジワルそうに笑った。

「お。雪波じゃん、珍しいなーっ」

 竜司が雪波さんに向かって声をかけ、手まで振った。

「ちょっ、ばっ」

 慌てて止めようと顔を上げると、今度は雪波さんと視線が合ってしまう。

「~~~っ!」

 僕はたまらず顔を背ける。

 どうかこのまま去ってくれますように。どうかこのまま去ってくれますように!

「あら、左藤さん。奇遇ですわね」

 すたすたすた。

 来たーーーっ。こっち来ちゃったよ雪波さん! いや、そりゃそうだよね。雪波さんは文武両道で、華道部だけじゃなくて剣道部にも入っているから。竜司とは顔見知りだろうし、そもそも声をかけられたらきちんと対応する、そういう優しいところが、むしろ雪波さんらしいよね! でも今はもっとイジワルになってぇっ。たまにはその八方美人やめてぇっ。

「……っ」

 僕は顔をそらしたまま、二人の会話が終わるまで大人しく座っておくことにした。多分僕になんて興味もないだろうし、すぐいなくなるでしょ。きっと……。

「華道部の方はもう終わったのか?」

「ええ、それが。今日は華道の先生が熱を出して来られないとのことで、中止になってしまいましたの」

「そうか、そりゃ残念だな。それで、剣道部の方に顔をみせようとしてたってトコか?」

「ええっと……」

 竜司……竜司ぃ! そんな世間話はいいから、さっさと話終わらせてよ! ってか、いっそ一緒に剣道部行っちゃえば? 僕帰るからさ。恥ずかしいことになる前に帰るからさぁーっ!

「そうも思ったのですが、今日は胴着も持って来ていませんし……。それに、わたくし、あなたを探していましたのよ」

「え? 俺?」

「あっ。ごめんなさい。左藤さんではなく、そちらの……」

 しばしの沈黙。

「……へっ?」

 顔を上げると、雪波さんが僕の方を手で示していた。

「な……っ。な……な……なっ」

 茄子漬? いや違う。なし崩しじゃなくて、南無阿弥陀仏じゃなくてなんてこったいじゃなくて……。

 な、なぜにぃーーーーっ?

 僕の頭はパニック寸前。こんな地味でとりえも無い僕なんかに、何の用事があるってんだよ雪波さん、血迷ったのかっ? それともこれは僕が空想を具現化する能力を得たことで見ている幻なのか雪波さんんんっ。

「ご、ごめんなさい。クラスメイトなのに名前が出てこなくて……。さ、サカウエさん。だったかしら?」

 違うけどそれでいいよーっ。雪波さんにそう認識してもらっているなら、それが事実だ。だって、声をかけてくれただけで奇跡なんだからーっ。

「残念。この顔真っ赤にして脳みそショート寸前のロボットヲタク少年の名は、バンダアユムだ。坂田って書いて、バンダって読むんだ。わかりにくくてごめんな」

「ちょっ。人の名前にケチつけないでよ竜司っ。ってか、ロボットヲタクとかちょまぁーっ!」

「なんだよ。マジじゃん? ってか、今日すでに絵ぇ見られたんだろ? 隠さなくてもさぁ」

 あ、ああ。ダメだ。終わった。僕の青春終了を告げる鐘の音が聞こえてくる。

 こんなの、こんなの恥ずかしすぎるよっ。こんな清楚で可憐で僕なんかの百万倍もリアルが充実していそうな雪波さんの前でこんな仕打ち……酷すぎるってばぁっ。

 呪うぞ竜司ぃぃぃっ。

「あ、あの。坂田さん?」

「はひぃっ」

「その、もしよろしければ」

―― ・・・・・・。

 彼女の言葉の後。僕の世界が一瞬止まる。

「……え? 今、なんて?」

 信じられなくて、思わず聞き返してしまった。

「ですから。今日、よろしければ一緒に下校してくださらない?」

 …………。

 思考が止まる。驚きのあまり。嬉しかったのか、緊張していたのか、怖がっていたのかも、もはや判別がつかない。

「え、マジで?」

 僕の心境を代弁するかの如く、竜司が先に口を開いた。

「え、ええ。お話したいことがありますの」

「ここで話せばいいじゃん?」

「ちょ、ちょっとここでは……。少し、その……個人的なお話なので」

 竜司の問いに、少し恥ずかしそうに顔を背ける雪波さん。

 え。まさか。……いや、まさか。そんな顔しないでよ。僕を心臓発作で殺す気ですか、貴女は。そんなまさか。

 目をぱちくりさせる僕をよそに、何かを察した竜司は「はっはぁ~ん」と悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 なんだよ? と竜司を睨むと、「別に?」とにやにやしながら肩をすくめた。

「あっ。あくまでもわたくしの個人的な、他愛のない問題ですので……。同好会の活動を優先なさって。わたくし、終わるまで待っていますから」

 そんな風に謙虚な事を言う、雪波さんの目は本気だ。そもそも、こんな無意味な冗談を言うような人ではない。この人が「待つ」と言ったら、例え日が暮れてでも待つのだろう。

「んじゃ、もう一局やろうぜ、あゆ……」

「ねぇ、竜司」

 僕は竜司の言葉を遮る。

「あん?」

 この僕の珍しい行いに、竜司は驚いた様子で顔を上げた。

「竜司、さっきさ。剣道部に顔出すって、言ってたよね?」

「は?」

 僕はさらに席を立ち、竜司にずいと歩み寄って、顔を近づけて訴える。

「言ってたじゃん? 剣道部に用事、あるって? ね?」

 伝わるはず。察しの良い竜司ならばわかってくれるはず。きっと伝わる。

「お、おう目が血走ってんぞお前……」

 伝わる。伝わる。伝わる。伝わる。

「言ってた。ね? 絶対言ってた」

 伝われ。

「あ~……」

 こんなごり押しな会話、生まれて初めてだよ……。

でも、竜司。頼むから察してくれ。これは僕の、僕にとっての一世一代の大事件なんだから!

「……お、おう。そ、そうだったそうだった。俺としたことが忘れてたぜ、なっはっは」

 ようやく察してくれた竜司は、笑いながら席を立つ。

「いやー、やっぱ負けると悔しくて、どうしてももう一回って言いたくなるわ。こいつショーギ強いんだぜ?」

 竜司が僕の方を指差す。雪波さんはきょとんとしながら、「はあ」と頷いた。

「んじゃ、片付けとくから、お前はもう帰れよ。雪波待たせちゃ悪いし」

「えっ。いいえ、そんな。わたくしの事は気になさらないで? あくまでも、個人的な……」

「いやいや。さっき賭けてたんだよ。将棋で負けたほうがあと片付けするって。な?」

 一度空気を読んだ竜司は鋭い。機転を利かせて、さらに僕を後押しするような事を言ってくれた。

 さっきはごめんよ、竜司。呪うなんて、物騒なこと考えて。やっぱり君とは友達でいたいよ。

 というかむしろ、心の友とでも呼ばせて欲しい。そんな気分だ。ああ、ありがとう竜司っ。

「でも……」

「いいんだって。どうも俺には話せないことらしいし? 気にすんな」

 竜司の笑顔には、説得力がある。雪波さんも、竜司の性格を理解しているからか、申し訳なさそうな顔も一変、納得したように「はい」と頷いた。

僕はやはり、良い友を持った。今なら、心の底から言える。何度でも言おう、ありがとう竜司っ!

「では。お言葉に甘えて」

 雪波さんが、僕の方を振り返る。

「っ!」

 どきっとして、肩を強張らせる、情けない僕。きっとこの時の自分を鏡で見ていたら、自己嫌悪で暫く立ち直れなくなっていただろうな。

「行きましょうか、バンダさん?」

 雪波さんが、小首を傾げて微笑んだ。その笑顔が、僕の心臓を打ち抜く。

 破壊力ありすぎだよ。さりげなくハートブレイカーだよ、その振り返り笑顔……。時間、止まれ。心のシャッターよ、この映像を百万回記録しろっ。

「う、うん……」

 すたすたと歩いていく雪波さんに、同じ方の手足を出しながらついて行く、やっぱり情けない僕。かっこ悪い……。

「おい。歩、カバン」

「う、うん……」

「大丈夫か? 手足が一緒に出てるぞ?」

「う、うん……」

「3×5は?」

「う、うん……」

「……。よし。もういっそ玉砕して来い。明日、愚痴くらい聞いてやるから」

「う、うん……」

 竜司に背中を押されて、ようやく教室から出る。

 雪波さんが振り返って、僕を待ってくれていた。その姿にまたどきっとして、立ち止まってしまう。

西日が眩しかった。その眩しさが。そして、雪波さんの「行きましょうか?」という言葉が。耳元を通り過ぎていく風の音が。これは夢ではないことを僕の脳裏に刻み込んでいく。


~~~~~~


 僕は今。憧れの人と並んで、下校している。

 雪波さんの一挙手一投足が、僕の心をばちばちと叩く。まるで豪雨のように。まるで電気のように。まるで火花のように。

 僕の心臓は激しく脈打った。それは脈動する火山。あるいは、意思とは関係なく襲い来る震動。まさに、雷鳴が如き轟きだ。

 雪波さんが、「ふぅ」と吐息を漏らした。

「……っ」

 その声に鼓膜が揺れると、やっぱり、胸がどきんとした。少し息が苦しくなってしまうくらいに。

「もう十月も間近というのに、暑いですわね」

「そ、そうだね……ですね」

「でも、風は冷たいから、体調には気を配らなければなりませんわ」

「そ、そうだ……すね」

 緊張で喉はからから。頭は真白になって、上手く言葉が出てこない。それに、妙に力が入っちゃって、太ももの裏の、変なところが痛い。つりそう……。

 僕ってなんて情けないんだろ。というか、今さらだけどさ……。女の子とまともに会話(?)したのすら、人生で初めてな気がするんだけど。どうしよう。何か僕からも喋った方がいいのかな? いや、でも、変なタイミングで話しかけて「何コイツ。キモッ」とか思われても嫌だしなぁ。ああ、どうしよう。ホント、どうしよう。 嬉しいのに、なんだか早く終わって欲しいとも思っちゃうよ。なんだ、この変な感覚。ああ、もうっ。考えすぎて頭おかしくなっちゃいそうだっ。

「それで、今日お呼びたてした理由なのですけれど」

「ひゃいっ!」

 ああ、もう! なんでこういう時に限って裏返るかな、声って! これじゃあただのマヌケじゃないか、僕のマヌケっ! オタンコナスビっ! ちょっと声かけられただけなのにさっ。もっと堂々としろよっ。……できたら苦労しないよぉっ!

 脳内で勝手にノリ突っ込みを繰り出してしまうほど動揺する僕を他所に、雪波さんは言葉を続ける。

「その、なんと言えばよいのか……。今日、実は、坂田さんがノートを落とした時、わたくし、見てしまったんですの」

「え……」

嫌な予感がした。

「あの、ロボットの絵を」

「あ、そうなの……?」

 僕は一気に、現実に突き戻される。景色がぐんと勢いをつけて後ろに下がっていくような感じだった。

 よりにもよって、一番見られたくない人に、僕の一番恥ずかしい一面を見られてしまったのだから。きっとこれが、絶望っていう感情なのだろう。

 穴があったら入りたい。川があったら飛び込みたい。壁があったら激突したい。毛布があったら引きこもりたい。そんな気分になった。

「わたくし、これだっ。って、思いましたわ」

 はい。ごめんなさい。気持ち悪くてごめ……はい?

「この人こそ、わたくしの秘めた思いを伝えるのに相応しい人だ。って」

 え? あの? もしもし? 雪波さん? もしかして、僕がキモすぎておかしくなっちゃった? いやそれとも、おかしくなったのは僕の耳の方? とうとう妄想を幻聴として認識してしまうくらい、僕は狂ってしまったの?

「何を、おっしゃっておられるのでありましょうか雪波サン?」

「あ、そうだ。お待ちになって」

 少々興奮気味の雪波さんは、僕の声など聞こえない様子で、カバンから一冊の手帳を取り出す。

 手帳にくくりつけられた可愛らしい毬の根付けが、僕に催眠術をかけるように左右に揺れた。

「これっ」

 次の瞬間には視界がふさがれる。雪波さんは手帳を開いて僕に突き出し、内容を僕に見せつけてきた。

「……え、これって……」

 そこに描かれていたのは、一匹の怪獣の絵。四つん這いで、胴長短足で、角や牙があって、尻尾はトゲトゲで。ヒーロー物の悪役として出てきそうな、厳つい怪獣。雪波さんにはまるで似合わないごつい体つきで、目もギラッと光っていて、ちょっと怖い。

 驚く僕の様子を見た雪波さんは、「あっ」と声を漏らす。

それはまるで、「しまった!」と言っているように聞こえた。

「こ、こういう類の物には興味がお有りではなかったのかしら……?」

 恥ずかしそうにうつむきながら、手帳を懐に隠す雪波さん。

「ご、ごめんなさい。わたくし、てっきり……」

その目は、ちょっと残念そうだ。

「……!」

 逆に、僕の目は輝いた。

「わ、わたくしのような女の子が、こういう……。や、やっぱり、変、ですわよね……。ごめんなさい、忘れて……」

「う、ううん。違う。違うんだ」

「え?」

「ぼ、僕もっ。そういうの、大好きなんだ!」

 僕の言葉を聞いた雪波さんの目もまた、あの美しい輝きを取り戻していく。

「さ、さっきのロボットも、そういうのを意識して書いてたんだ。すごく大きくてさ、ヒロインがあれに乗って戦うんだよっ、怪獣とっ!」

 言い終わるか否か。そんなところで、雪波さんの表情が、ぱあっと明るくなった。今まで見たことないくらい、輝いた笑顔だ。

「やっぱり! あのなんともいえない重厚感。そして洗練されたフォルム。何より細かな部分まで設定が凝られていそうな武装っ。きっとそうだと思いましたの!」

 まさか。そんな、まさか。

 こんなところに、趣味が合う人がいるなんて。

 それもまさか。僕の憧れの人なんて……っ。

 ねぇ、神様。僕がこんなに幸せで、いいんですか?

「うん、うん。それでさ。変形して、主人公機と合体するんだ」

「合体と愛のパワーで二百万馬力っ。なんですわね?」

「そう! そんでやっぱりロケットパンチは外せなくて」

「必殺技は声帯認、巨大怪獣とビルを破壊しながらの肉弾戦!」

「そう、それっ! くぅーっ、近年海外映画の迫力映像で廃れてしまった特撮特有の“本物”感だよねっ」

「派手な土煙のエフェクトと、なんといってもぶつかり合う激しさを表現する火花の数々、ですわっ」

 こんなに無邪気に笑う雪波さん、初めて見た。

 まるで、今まで押さえて押さえて、必死にせき止めていた清流が、いっきに解き放たれて滝になったかのように。

いつも凛として物腰穏やかな雪波さんが、飛び跳ねるように喜んでいる。

 そんな様子が嬉しくて。なにより、話の合う友達がいることが楽しくて。僕もまた、ついつい一生懸命になって語ってしまう。

 次々と、喉から言葉があふれてきた。

「怪獣は、地底奥底に眠っていた古代生物で……。そう。実は恐竜を絶滅させた原因。なんてどう?」

「なるほど。世界に増えすぎた種族を一度リセットするための、いわば地球の掃除屋……。とても、強そうな設定ですわっ」

「地震や火山の噴火も起こしそうだね!」

「ええ、もちろん! 良いですわ、良いインスピレーションが次々と浮かんでっ。ああ、もう。楽しいっ」

 らしくないと言えばらしくない。だって、雪波さんが、両手で拳を握って、それをわくわくするように上下に振っているのだから。

 それに、と僕は思い返す。今までの人生で、こんなに充実した時間があっただろうか。いや、ない。そして、きっと。これから先もきっと無いだろう。

 それくらい、僕は夢中になって雪波さんと語り続けた。


~~~~~~


 楽しい下校はまだ続いていた。橋を渡って、人気の無い公園に差し掛かる。

「あ……」

 そこで、僕たちはそれぞれ、違う道に進もうと歩を進め、そして立ち止まり、お互いに相手の顔を見た。

 雪波さんと目があってしまったけれど、いつものような恐怖感や緊張感は全く沸いてこなかった。むしろ、この先に待っている別れという現実が、少し物悲しく感じたくらいだ。

「あら。帰り道はそちらなのね?」

 雪波さんが、やっぱりちょっと物足りないと言った様子で首をかしげる。

「う、うん。……でも、話の途中だし、僕もそっちに行こうか?」

「いいえ。是非そうして欲しいと言いたいところですが。でも、ここから家までの間では、とても語りつくせませんわ」

 雪波さんが、とても満足したように目を伏せて天を仰ぐ。

 顔の位置を戻してから、雪波さんは真っ直ぐ僕を見つめて、こう言った。

「また明日、お相手してくださいます?」

 もちろん! 頭の中ではすぐに返事を返せた。だが、喜びのあまり、言葉が喉の奥に引っかかって出てこない。

「え……あっ……う……え?」

 こんなことが起こるなんて、まったくの想定外だ。準備も覚悟もできていない僕に、気の利いた返事なんかができるはずない。

「……やっぱり、ご迷惑でしょうか?」

「そ、そんなことないよ!」

 必死に絞り出した声は、自分が思っていたよりもずっと大きくなった。

 雪波さんは、驚いたように目を丸くする。

「あ、ご、ごめん。なんだか、その、嬉しくって、つい」

 しどろもどろになりつつも、僕はなんとか、雪波さんに誤解を与えないよう努めた。

「わたくしもですわっ」

 僕の心配なんかどこ吹く風。雪波さんは、これまで以上の無邪気な笑みで、僕に微笑みかけてくれた。

 また、彼女の笑顔が僕の心をぶっ壊す。でも、その意味は今までとちょっと違った。今まで高嶺の花だと思っていた彼女は、実はちょっと近い場所にあって、手を伸ばせば届きそうな存在で……。同じ道を進むことができる相手だと、気付くことができたから。

 彼女の笑顔は、僕の心の緊張や、猜疑心のような醜悪な感情を、綺麗さっぱり、取り除いてくれたのだ。真っ黒いさなぎの殻を、彼女が外から破ってしまったかのよう。

「そ、それなら、よ、よかった」

 僕もたまらず笑顔になる。ああ、もう、時間が止まってしまえば、この笑顔をずっと見続けられるのに! そんな思いに駆られた。

 空間が縮んでしまえば、同じ場所に帰ることだって出来るかもしれないのに! そんな願いが脳裏を過った。

「では、また明日!」

 雪波さんは軽く会釈をして、満面の笑みのまま背を向ける。そして、スキップするようにして、ふわふわの髪を左右になびかせながら遠ざかっていった。

「う、うん。また明日ね!」

 僕はその背姿に、手を振って見送る。

 ふと、雪波さんが振り返った。僕の姿に気付くと、また笑顔になって、手を振り返してくれた。

 ああ、ありがとう。貴女に合えて、ホントによかった。

 僕は、雪波さんの背中が見えなくなるまで、大きく手を振り続けた。


~~~~~~


 僕の人生という物語は、この出会いをキッカケに急展開を迎える。

「漫画も描いてらっしゃるの?」

「うん。ちゃちなもんだけどね」

 翌日の下校時間。僕たちは、また並んで歩いていた。なるべくゆっくり歩いて、ちょっとだけ遠回りして。隠し続けてきた趣味を語り合いながら。少しずつ心の距離を縮めながら。

「凄いですわ。是非、拝見したいものです」

「そ、そんな大したものじゃないんだけど……」

「謙遜なさらないで。きっと、笑ったり、酷いことを言わないと、約束しますから」

「う、うん。そこは心配してないんだ。僕も読んで欲しい。今まで読んでくれる人なんていなかったからね」

 それとさ、と、僕は続ける。

 実は昨日の晩、僕はある提案を思いついていた。

「も、もしよければ、コラボしない?」

「こら、ぼ。ですか?」

 雪波さんが不思議そうに首をかしげた。

「うん。雪波さんのオリジナル怪獣と、僕のロボット、漫画で共演させたいなぁ。なんて、考えてるんだけど……」

 僕はちらっと雪波さんを見る。

「……っ」

 雪波さんは、どこか迷ったように唇をきゅっと閉め、困った様子で右腕をさすっていた。

「あっ。ご、ごめん。僕のへたくそな絵で、勝手に描いて欲しくなんて、ないよね?」

 僕は俯いて、もう一度、「ごめん」と呟く。

 まぁ、こうなることは予想していたから、これと言って傷ついたとか、そういうんじゃないけど……。なんていうか、ちょっと……残念だな;あ。

「い、いいえ。そうではありませんの」

 雪波さんが、慌てた様子で首を振った。

「わたくし、喜びに感極まってしまったのですわ!」

 僕は耳を疑って顔を上げる。

「ほ、ほんと?」

「ええ」

 なんだ、よかった。でも、だったらどうして、あんな困ったような顔をしていたんだろう?

「ただ……」

 雪波さんが、急に立ち止まる。

「ただ? どうしたの?」

 僕も一歩前で立ち止まった。雪波さんを振り返る。

「その、実はわたくし……」

 悲しそうにうつむく雪波さん。迷うというより、悩んでいるという表情。

 ねぇ、そんな顔しないでよ。僕まで悲しくなっちゃうじゃないか……。

 そんな言葉が、喉まででかかるのだが、やっぱり、言えない。

「以前父上に、叱られたことがあるんですの。怪獣なんて、名門の娘が好む趣味ではない、と……」

 僕は言葉を失った。確かに、華道の名門で暮らすお嬢様が怪獣好きなんて驚いたが……。でも、好きなものは好きなんだから、仕方ないじゃないか。それを奪うなんて、そんなの、あまりに横暴だ。

「き、気にしちゃダメだよっ」

「え?」

 驚いた様子で雪波さんが顔を上げる。

「お父さんに叱られたからって、気にしちゃダメだよ! だって、だってさ!」

 普通人間の僕なんかが、由緒正しい家柄を持つ家庭の事情に口を挟むなんて、愚かなことだったかもしれない。でも、僕はどうしても、心の感情をぶちまけずに入られなかった。

「怪獣の話をしている雪波さんの顔、すっごく輝いてるんだもん!」

 だって。雪波さんの笑顔を奪ってほしくなかったから。

「ダメだよ! 雪波さんはそんな暗い顔しちゃ、ダメ!」

 感情を表に出すことに慣れない僕は、言い終わって肩で息をする。何度か息を吸ったり吐いたりしていると、だんだん冷静になって、自分の言動が酷く愚かだった事に気が付いた。

「ご、ごめん。怒鳴ったりして……」

 ああ、ダメだ。やっぱり僕はダメ人間だ。雪波さんのためとは言え、他人の家の事情に口を出すなんて出すぎた真似……。それに、一番傷ついてるであろう本人に向かって怒鳴っちゃうなんて。最悪だよ。

 僕がうなだれた、その時。

「謝らないでください」

 僕の肩に、何かがそっと優しく触れた。

「わたくし、坂田さんの言葉で目が覚めましたわ」

 え? と顔を上げる。

 雪波さんの凛とした視線と目が合った。

「ねぇ。坂田さん。わたくしからのお願い、きいて下さい」

 雪波さんは、両手で僕の手をぎゅっと握る。

「是非、わたくしの考えた怪獣を、あなたの漫画に出して!」

 あまりに唐突な出来事だったので、僕はなんだか、「自分の手、汗ばんだりしてないかな?」とか、変な心配が先に思いついてしまった。

「わたくしの怪獣が活躍するところ、見たいの!」

 そして。徐々に湧き上がってくる感情。喜び。高揚。興奮。軽いプレッシャーと、そして安堵。

「も、もちろんだよ。任せて!」

 僕は雪波さんの手を握り返す。よかった。本当に嬉しいよ、僕は!

「そうと決まれば、さっそく設定をまとめて、絵に書き出さなきゃなりませんわ」

 僕がそっと手を離すと、雪波さんはぐっと拳を握り締める。

「今日は金曜日だから……。来週、月曜日までには、きっと完成させます!」

 その時の雪波さんの表情からは、決意というか、気合のような感情が見て取れた。

 その真剣な眼差しに、またまた僕はどきっとしてしまう。でも、このどきどきは、最初のような恥ずかしいとか、苦しいってどきどきじゃなくて。なんというか、嬉しいどきどきだった。

「こうしてはいられませんわ。すぐに帰って、設定を練らないと……っ」

 雪波さんは「うんっ」と大きく頷くと、

「では、月曜に!」

 と短く言い残して、意気揚々と駆け足で去って行ってしまった。

「……う、うん。またね」

 僕は呆気に取られ、小さく手を振り返しながら、しばらくその背を目で追う。

 この時はまだ、僕は彼女の決意の意味を知らずにいた。


~~~~~~


 土日は何にも手がつかなかった。

雪波さんは一体どんな怪獣を考えてくるんだろう?

 その怪獣を活躍させることが、僕に出来るかな?

 不安と期待と。喜びと怖さと。緊張と安息。

 様々な感情が、ぐるぐる、ぐるぐると僕の心をかき回す。

「ううう~っ!」

 ベッドの上で、枕をぎゅっと抱きかかえながら。僕はずっと悶絶して休日を過ごした。


 そして、月曜日。

「あの、坂田さん?」

 昼休みになった途端、雪波さんが声をかけてきた。

「うん、どうしたの?」

 辺りをきょろきょろと見回して、折りたたまれた数枚の紙を、こっそり渡される。きっと怪獣の設定だろう。

「ごめんなさい。今日はミヨさんとお昼を食べることになっていて。それに放課後は剣道部の練習がありますの」

 そっか。色々と質問してから書きたかったんだけどな。

「うん、わかった。練習、頑張ってね」

 無理を言って雪波さんを困らせるのも嫌だったし。ここはなんとか、自分の手でやってみよう。と、僕も心に決める。

 雪波さんは、「はいっ」と嬉しそうに頷いた。

「それで、あの……。急ぎすぎて少し、つたない絵になってしまったのですが……」

「大丈夫だよ。描いた後にもし違うところがあったりしたら、その時に遠慮なく……」

「ねぇ雪波さーん。何してるのー?」

 僕の言葉を遮って、誰かが雪波さんを呼んだ。声のした方を振り向くと、教室の外から、一人の女子が顔を覗かせているのが見える。きっと彼女が、ミヨさんなのだろう。髪留めについている可愛らしいイルカのアクセサリが、ふわふわと空を飛ぶように揺れていた。

「あっ。わたくし、もう行かなくちゃ」

 雪波さんは僕に背を向けて、ぱたぱたと駆けて行ってしまった。声をかける暇もなかったが、きっとそれでよかったのだと、自分に言い聞かせる。

「……。期待に答えられるよう、僕も頑張らなきゃ」

 僕は受け取った紙を丁寧にカバンにしまった。

 今日から眠れない日が続きそうだ。


 僕は雪波さんの気持ちを汲んで、家に帰ってから紙を開いた。多分、ああやってこっそり渡されたのは、人目を忍んでいたのだろうから。僕にもその気持ちは痛いほどわかるし。

「……」

 紙に描かれていたのは、水彩画のように色を塗られた怪獣だった。三本の角、光る眼光、太い足に鋭い爪、そして立派な翼。辺りに漂う張り詰めた空気までも切り取ったかのような、威風堂々たる立ち姿。ゲームでラスボスを担いそうな黒いオーラを全身に纏った、とてもカッコいいドラゴン型の二足歩行怪獣だ。

「ぼ、僕なんかよりずっと絵が上手いじゃないかっ」

 思わずつっ込む。

 っていうか、どこかのゲームの攻略本かなんかに描いてあった絵を、そのままトレースしてきたわけじゃないよね、コレ?

 そう疑ってしまうほど、完璧な出来だと思えた。

 こんなの、僕に描けるかな……。っていうか、僕の描いたロボットと並べていいのか……。

 いつもの弱音が心の扉を叩く。

「い、いや。描くんだ。誰よりもかっこよく描いてみせる!」

 他でもない、雪波さんの頼みなんだから。きっと出来る、やってみせるぞ!

 僕は雪波さんの顔を思い浮かべ、僕の中に住む弱虫な自分を追い払った。

 早速僕は、一緒に折りたたまれていた解説用の紙を読みながら、漫画のストーリー構想を練り始めた。この怪獣のどの部分を強調し、どう活躍させるか。それが重要だ。


~~~~~~


 漫画を描いている間は、毎日がとても充実していた。

 その間にもちょくちょく雪波さんと相談して、後姿や怪獣の細かい部分などを試行錯誤し、なんとか形になってきたところだ。

 そして。

 十月に入って何日か過ぎた頃。描き始めて二週間、ようやく一通り描き終わった。

 最後の最後。ラスト一ページでかなり躓いたが……気に入ってもらえるかなぁ。

「ど、どこで見せようか? さすがに学校じゃマズイよね」

 描き終わった事を雪波さんに報告すると、またまた驚きの言葉が返ってくる。

「では、是非わたくしの家にいらして」

 まっ、マジですかぁああああっ。

 心の中で、天使と悪魔の格好をした小さな僕が、「よかったな!」とか言いながら、心臓と脳と心の扉をガンガンと叩きまくった。

「今日はお稽古も休みだし、わたくしの部屋なら、誰にも邪魔されませんわ」

 驚きすぎて、胃が裏返って喉から出てくるかと思ったよ! も、もちろん嬉しいって意味でさ!

「そっそっそっ。そそそそれはいい考えだぁねぇっ」

 あーあー裏返るのが声でよかったよかった。嬉しすぎてもう気にもなりませーん。

 僕は天にも昇る気持ちで、何度も何度も頷いた。

 当然、授業なんて全く耳に入らず。

「家だってよ」

「雪波さんの部屋だってよ」

 と、小さな僕に耳元で囁かれ続ける一日となった。


 その日の放課後。

「……ほ、ほんとに来ちゃった……」

 びっくりするよ。いや、想像はしていたけどそれ以上にびっくりしたよ。

 華道の名門だなんて言うから、きっと立派なお屋敷に住んでいるのだろうとは想像していた。でも、まさか日本庭園付きで、でっかい蔵や道場まで見えるくらいの豪邸だとは考えてもみなかったよ。 雪波さんが”家”と呼ぶその場所は、観光名所になりそうな程、耽美で豪華で、とんでもなく広いところだった。

「さあ、どうぞ」

 厳格な門を超えると、どこかでカコンという音が鳴った。

 ししおどしが庭に備え付けられている家なんて初めて入った。……っていうか、ほんとにこんな家、あるんだね。

「お帰りなさいませ」

 女中の人だろうか。玄関から入っていくと、割烹着を着た中年の女性がすすすっと出てきて、雪波さんに深々と頭を下げた。

「こっ。こんにちはお邪魔しみゃすっ」

 割烹着の女性は僕を見ると、「あら」と口元を隠してくすくすと笑った。緊張でそれどころじゃなかった。

「さあ、こちらですわ」

 通された彼女の部屋もすごかった。広くて、きちんと整理されていて、入り口側の窓際には花が飾ってあって。ベッドも大きいし、カーペットはなんだか高級そう。

 和と洋の絶妙なバランスが、なんとも雪波さんらしいという感じ。

 それになんだか、とてもいい香りもする。……はっ、これじゃあ僕ただの変態みたいじゃないかっ。

「す、す、す凄いねぇ」

 で、でも。やっぱりいい匂いが……。もう、なんて言ったらいいのかもわかんないよっ。

「そうでもありませんわ。さぁ、お座りになって」

 雪波さんはカーペットの上に直に正座して、僕に座布団を差し出した。

「……う」

 ぼ、僕正座は苦手なんだけど……。で、でも雪波さんが正座なんだから、僕だけ足を崩すわけにはいかないよねっ。

 なんて、いらぬ見栄を張る。

「さて、さっそくなのですが……」

 雪波さんが待ちきれない様子でそわそわしながら、僕のカバンを見つめる。

 顔の横で手を合わせて微笑む彼女の笑顔を、いつまでも見ていたいと思ったが、そういうわけにもいかず。

「う、うん。なんだか、恥ずかしいな」

 カバンから紙束を取り出して、雪波さんに渡す。

「一応、ペン入れもしてみたよ。トーンは貼ってなくて、それで……」

 そこまで言ったところで、雪波さんが意味を理解できていない様子で顔をしかめている事に気付いたので、口をつぐむ。漫画的な知識は、彼女にとってはどうでもいいことなのだろう。

「あ、やっぱりいいや。まず、読んでみて」

 この時の僕は、「そういえば雪波さんって漫画とか読むんだろうか」という疑問で頭がいっぱいだった。

「はいっ」

 雪波さんはまた笑顔に戻り、紙束に視線を落とす。

「雑な絵で、すっごく申し訳ないんだけど……」

 僕がなるべくハードルを下げておこうと言い訳をすると、雪波さんは落とした視線をあげることなく、口元に笑みを浮かべながら、

「そんなことありませんわ。素敵!」

 と言ってくれた。

 少しだけ安心した。

「…………」

 その後、僕は雪波さんが漫画を読むのを邪魔しないように、完全に押し黙る。時々唾を飲み込む音が、もしかして耳障りじゃないかな、なんて、いちいち小さな不安を感じる。

「…………」

 雪波さんが読んでいる間の沈黙が、僕にとっては物凄い重圧で。すっごくそわそわした。でも、部屋をきょろきょろ見渡すのもなんだか失礼な気がしたので、何度も瞬きしたり、頭をかいたり、とにかくなるべく視線を落として、雪波さんが読み終わるのを待った。

「ああ、凄い。わたくしの思い描いていた通りの活躍ですわ。これでこそ、わたくしのゴウゴゲンドラちゃん」

 それでも、雪波さんは楽しんでいるように見えた。ひとまず、安堵のため息が漏れる。

「設定の、『蝕む』っていう表現が難しくてさ。上手く描けてなかったら、ごめんね」

 一応、返事として言い訳を置いておく。僕はいつだって小心者さ。

「いいえ、そんなことありません。とってもお上手ですわ!」

 そういう雪波さんの笑顔は本物だった。愛想笑いとか、気を使った笑顔とかそういうのじゃなくて、もっと、楽しんでくれている微笑みだ。

「そっか!」

 喜んでもらえて、僕も嬉しい。だから、僕もだんだん笑顔になった。

 一枚、また一枚とページがめくられていく。その度に雪波さんの表情が変わったり、嬉しそうに微笑んで瞬きする様子が楽しくて、最終的に僕の視線は、雪波さんの表情を観察することに落ち着いた。

「……」

 最後のページに差し掛かったとき。ふと、雪波さんの表情が固まった。

「あの、これは……?」

 そして、困惑したように僕を見る。

 やっぱり問題になったのは、最も苦戦したラストだ。

「あ、えっとね、それは……」

 僕はどうしても、雪波さんが考えた怪獣を、倒すことが出来なかった。雪波さんの思いが詰まった怪獣。それは、雪波さんの夢の欠片。僕にとっての憧れの人の、仲のよい友達のような相手。

 それを壊すことが、倒すことが。僕にはどうしても出来なかった。

 だから。

 僕は物語のラストで、怪獣に勝たせてしまった。主人公のロボットは大破し、怪獣が勝利を天に吼える。そんな一コマで、漫画を終わらせた。

「い、いやあ。雪波さんが一生懸命考えた怪獣を倒しちゃうのが、どうしても可哀想で、さ」

「で、でもこれでは……」

 雪波さんは、困った表情で僕と漫画を交互に見る。

「これでは、世界は救われませんわ……」

「ごっ、ごめん。気に入らなかった?」

「い、いいえ。とても素敵でしたし、心遣いは嬉しいのですが……」

 雪波さんは眉をひそめ、悲しいような、困ったような、複雑な顔をしている。

 ああ、ごめん雪波さん。僕の力が足りないから、貴女にこんな表情をさせてしまったんだね……。

 そんな言葉を思いつくが、やっぱり口には出せなくて。

「やっぱり、最後は救われるべきだと思います。例えわたくしの怪獣が倒されたとしても」

 先に、雪波さんが喋りだしてしまった。

「ゆ、雪波さんは、優しいね」

 何か返事を返さなくてはと焦り、無意識に、思ったことを口に出してしまう。

 雪波さんは驚いたように、「えっ」と口を手で覆った。

「あ、あ、ごめん。急に変なこと言って。き、気持ち悪いよね」

「い、いいえ、そんなことは。ちょっと……驚いただけですわ」

 雪波さんが顔を背ける。

 気まずい沈黙が辺りを包んだ。

 その時。

「入るぞ」

 野太い声がしたかと思えば、雪波さんの部屋の襖が、バン! と開かれる。

 紺色の和服を着た、髭を生やした強面のおじさんが、部屋にずかずかと入ってきた。

「お、お父様っ」

 え。この怖い人、雪波さんのお父さんなの?

 さすがに、そこは口を滑らせなかった。

「と、突然娘の入ってくるのは、父親とは言えあまりに不躾ではなくてっ?」

 怒った様子で口を尖らせる雪波さん。その下で、持っていた漫画を後ろ手に隠した。

 そ、そうか。雪波さんは、怪獣が好きな事をお父さんに叱られたことがあるって言ってたっけ。

「お友達が、それも男子が遊びに来ているというのだ。わしも挨拶くらいせねばなるまい?」

「こっ、こんにちはっ」

 僕は立ち上がって背筋を伸ばし、はきはきとした口調で挨拶をした。というか、お父さんの威厳というか、風格がそうさせた。

「おや、元気だね。客人なのだから、楽にしなさい」

 口調は穏やかで口元にも笑みを浮かべていたが、相変わらず顔は怖い。

「は、はいっ」

 手で座るよう促されたので、僕はゆっくり丁寧に座る。背筋はびしっと伸びて、つま先まで神経を尖らせるくらい緊張していた。

「それで、だ」

 お父さんが雪波さんの方を向く。そして、その口元の笑みが消えた。

「あやか。今、隠した物はなんだい?」

「……っ」

 ま、まずい。

 そう思ったが、僕にはどうすることもできず……。

「出しなさい。今すぐ」

「……」

 雪波さんは、しぶしぶと漫画の束を差し出した。

 大股で歩いてきて、それをぶっきらぼうに取る雪波さんのお父さん。

「……。なんだ、これは?」

「そ、それは僕が勝手に……っ」

「我が家に関係のない客人は黙っていてもらおう。これは家族の問題だ」

 そ、そう言われると、反論も出来ない……。僕はしょんぼりとうなだれた。

「キミが描いたものなのだろうから、これは返すよ」

「は、はい……」

 当然、僕は従うしかない。漫画を受け取る。

「あやかは居間に行っていなさい。話がある」

「わかり、ました」

 雪波さんも残念そうに目を伏せ、ちらと僕の方を振り返りながら、部屋から出て行った。

 その様子をじとっと睨んでいたお父さんは、雪波さんが部屋から出て行くのを確認してから、僕に向き直る。

「茶菓子でも出させよう、食べるといい。だが、それを食べたら、今日はもう帰りなさい」

「……あ」

 ま、まさかこんなことになっちゃうなんて。僕、僕……。

「す、すぐ、帰ります……。あの……宿題が、残っているので……」

 無念だった。だが、そう言うしかなかった。この場に残る度胸なんて、僕には無いよ……。

「そうかな? すまんね、急がせてしまって」

 それだけ言うと、お父さんは部屋から出て行ってしまった。

「…………」

 僕は漫画をカバンにしまって、とぼとぼと部屋から出る。

「お帰りですね」

 さっきの女中さんが、僕にすすすすっと近付いてきた。

どうやら僕を見送ってくれるらしい。いや、きちんと帰ってもらうための見張り、と言った方が正しいか。

 やはりというか、なんというか。雪波さんの家は、普通の家庭よりも少し厳しいところがあるみたいだ。名家だもんね。仕方ないよね。

「は、はい。……お邪魔、しました……」

 女中さんがしゃかしゃかと歩き出す。僕はなんだか後ろ髪を引かれる感じがして、なるべくゆっくりそれに続いた。


「前にも言っただろう。我が家の娘が、怪獣などという物騒な物を趣味にするなと」

 居間を通りかかったとき、すぐ近くから雪波さんのお父さんの声が聞こえてきた。静かだけれど、凄みを帯びた声色だ。……怒っているように聞こえる。

 ふと見ると、座布団の上にあぐらをかいているお父さんの前に、床に直に正座して視線を落とす雪波さんの姿が。

その顔はとても悲しそうで……。同時に悔しそうでもあった。瞬きもせず、ただじっと、俯いている。

「わかっているのか? お前は将来、家督を継ぐ存在なんだぞ。あのような趣味を持っていては、人様に顔向けできんだろうが」

「……」

 雪波さんが、僕らの足音に気付いてちらっとこっちを見る。そして、僕は目が合ってしまった。

 その目は、僕に助けを求めているように見えた。

「……あ……」

 足が、止まる。

「お前は華道の家の娘だ。もちろん、花をいける事を一番に考えねばならん。……わかるなっ?」

 お父さんが怒鳴る。雪波さんは、きゅっと目を閉じた。

「……っ。ま、待ってください!」

 身体が。口が。勝手に動いた。心が僕を衝動的に突き動かした。それが、正しいことなのか判断する前に。

 雪波さんが驚いた表情で目を見開き、こっちを見た。

「……なんだね?」

 お父さんから、ぎろり、と睨まれる。それでも僕は怯まない。一瞬も止まることなく、二人に近付いていく。

「ああ、お客様。旦那様は今お取り込み中で……」

「べ、別にいいじゃないですかっ。好きなものを好きだって言うくらい!」

 女中さんに止められたが、さらに一歩前に出た。

「あ、歩さんっ」

 雪波さんも、僕を心配するように手を伸ばし、膝を立てた。しかし、やはり僕は、お構いなしでもう一歩踏み出す。

 前に進むことしかしらない、将棋の歩の駒のように。

「何が好きかなんて、決めるのは自分です。他人に決める権利なんてないっ」

「お客様っ!」

「いや、良い」

 僕に掴みかかろうとした女中さんを、他でもないお父さんが手で制した。止められる事もなくなったので、僕も足を止める。

「あやか」

「……はい」

 お父さんに呼ばれて、雪波さんが座りなおす。

「もう一度だけ聞く。お前が一番好きなものは、何だ?」

「……っ……」

 雪波さんは息を飲んだ。

 お父さんと、僕を交互に見る。手をぎゅっと握って、わなわなと小刻みに震えていた。きっと、今、彼女には物凄い葛藤がある。それは、どちらも彼女にとって大事な物で、そして、選びがたい選択であっただろう。

「好きなものは何だっ、言いなさい!」

 だが。言わない、という選択肢は、許されないようだった。

「……わ、わたくしは……」

 震える唇で、雪波さんは言った。

「わたくしは、怪獣が大好きですっ。歩さんと怪獣の話をしている時間が、一番好きっ!」

「っ!」

 その場の空気が固まった。

「…………」

 雪波さんは、「言ってしまった……」というような、後悔と懺悔と開放感を含んだ顔をして、肩で息をする。わなわなと、唇が震えていた。

「……」

 お父さんが口を開く。

「……よし、よく言った!」

 そして、喝が入る。

「……っ。……え?」

 雪波さんの震えが止まった。

「少年の言うとおりだ。好きなものを好きだと言って何が悪い! 好きだからこそ、それは美しくなるのだ!」

 ……え?

 僕も耳を疑う。

「で、でもっ。お父様は前にもおっしゃったはずですわ。その……怪獣は、ダメだ、と」

「自分が本当に好きなものであれば、一度や二度否定されたからと言って諦めるな! 例え、それが親の言葉だったとしてもだっ!」

 お父さんの言葉を聞いているうち、僕の中にふつふつと安堵の気持ちが湧き上がっていく。同時に、急に力が抜けたからか、今さらになって足ががくがくと震えだした。

 それでも。僕はそんなの気にならない。雪波さんの言葉が受け入れられた喜びの方が上回った。

「フフッ」

 目をぱちくりさせる僕の後ろで、女中さんがにこにこと微笑んだ。きっと、この人にはお父さんの真意がわかっていたのだろう。

「名門の娘が、そんな他人の言葉に振り回されてどうする。お前が背負うのは家名、家督、家の歴史そのものだ。芸術には批判が伴う。今の時勢、優しい言葉などかけてもらう方が稀というもの。この世界で生き抜くには、何を言われようと自らを貫く、芯の強さと覚悟が必要なのだよ」

 お父さんはちらと僕を見て、話を続ける。

「わしもいずれ年を食う。年を食えば、時代に合わぬ事も言い出そう。その時、わしの言葉にそそのかされて、この家を潰すようなことがあってはならん。誰がなんと言おうと、間違っているものは間違っているのだ。真実を見抜く力と、正義を信じる心を培いなさい。……わかるな?」

 雪波さんは、目をキラキラと輝かせて、

「はいっ」

 と大きく頷いた。

「……良し。わかったなら、来週の大会のための練習に行きなさい。趣味は趣味、本業は本業だ。支障を出してはいかん」

 え……。大、会?

「わかりましたわ、お父様」

 雪波さんが立ち上がる。力強い歩みで、どこかへと向かっていった。そして、僕の横を通り過ぎるときに、小さな声で「ありがとう」と言った。

「えっ。あ、あのっ」

 何が起こったのかわからず、きょろきょろしていると、お父さんがのしっのしっと近付いてきた。

「この子はわしが送ろう。加賀さんは、あやかの様子を見てきてやってくれ」

「はい、かしこまりました」

 女中さんがぺこりと頭を下げて、しゃかしゃかと廊下を歩いていった。

「あっ。そのっ……」

 さすがに気まずいんですがっ!

「ふっふっふ。そんなに緊張せずとも良い」

 がっちがちに固まってしまう僕を、お父さんは穏やかな表情で見る。さっきまでの鬼のような形相は一変。とても、優しそうな表情を覗かせた。

「ええと……名前は、確か……」

「あ、歩、です。坂田、歩……」

「そうか、歩君。少し、話をせんか?」

「……え?」

「こちらに来なさい」

 わけのわからぬまま、僕はお父さんに促されるままに、後をついて行った。


 玄関から出て、庭の方へと足を運ぶ。

「あ、あの……」

 どうにも耐えられなくなって、失礼を承知で僕から先に口を開いた。

「華道の、た、大会があるなんて知らなくて、僕……。もしかして、邪魔をしちゃったんでしょうか? 雪波さんに、迷惑をかけちゃったんでしょうか?」

 それだけがどうにも気がかりでならなかった。僕が誘っちゃったから、雪波さんを困らせてしまったかもしれないと。不安で、たまらない。

「うん?」

 振り返ったお父さんは、きょとんとした顔で僕を見る。

 そして。

「がっはっはははっ。いやなに、大会なんて、ファンを楽しませるための余興に過ぎんよ。がっははは」

 僕の不安を、豪快に笑い飛ばした。

「有名無名問わずに自分の力を披露する場だ。勝敗なんて、あってないようなものだと、わしは考えとるよ。そもそも完成の無い芸術に、優劣があってたまるか。好き、嫌い、そういった共感を多く得たものが、真の芸術足り得るのだからね。そりゃあ、後ろ盾もない無名の者は、こういった場で名を馳せようともするだろうが……あやかには関係のないことだよ」

 そ、そうなんだ。よかった。と、僕は胸を撫で下ろす。

「むしろ心配だったのは、あやかの”心”の方でな……」

 どこか遠くを見るように、お父さんは天を仰ぐ。僕も「心?」と問いかけるように復唱しながら、それにつられて空を見た。怪獣のような形になった雲が、ちょうど屋敷の庭の上を通り過ぎていくところだった。

「あれは頑固というか、どこか他人の目を気にし過ぎるところがあってな」

 お父さんは、ぽつりぽつりと語りだした。その言葉に耳を傾けようと、僕はお父さんの方を見る。

「例えば……「そういつも家名を背負っているわけではないのだから、友達の前でくらい普通に喋れ。」と、何度諭しても、あの口調を止めん所とか」

 そういえば。と、僕は学校での雪波さんの行動を思い返す。どんな時でも揺ぎ無く、いつでもどこでも完璧な雪波さん。今さらになって気付く。常に完璧であること……それは、「名門の娘はいつでも完璧でなくてはならない」という、雪波さんの脅迫概念だったたのかもしれない。

 八方美人のままでいて。

 竜司と一緒にいるときに、僕が思いついた言葉だったけれど。まさにその通りだったんだ。

 続いて、僕は初めて怪獣の話をした時を思い出す。あの時の笑顔が輝いて見えたのは、本当に心から笑ったからだったんだと気付く。本当に、今までずっと押し殺してきた感情を、文字通りぶちまけた結果だった。

 事実に気付くと、過去というものは大きく意味が変わってくる。何気ない時間が、もしかすると、一番大切な時間だったんじゃないかと。そう思えてならない。

「……むしろ、キミには感謝しとるんだよ」

「え、な、なんでですか?」

「頑固な娘を、ほぐしてくれたからな。力を入れて意識し過ぎると、何事も上手くいかんもんさ。もっとも、「怪獣の話をしている時が一番好き」というのは、少し意外と言うか、残念だったがね」

 ふぅ。とため息をつくお父さん。本当は「華道をしている時が一番好き」だと、言って欲しかったのだろう。その気持ちも、なんとなく、わかる。

「ご、ごめんなさい……」

 思わず、そんな言葉が出てきてしまった。

「何を謝る? 感謝していると言っただろう?」

 お父さんは僕に近付くと、肩をがっちりと掴んでこう言った。

「これからも、娘をよろしく頼むよっ」

「あ……。は、はいっ」

 僕は、迷わず答えた。

「うむ、うむ。いい返事だ。度胸があるね、君という男は」

 茶化すようなお父さんの言葉に、僕は「あはは」と苦笑いで返す。

 一通り会話も済んだところで、お父さんが「さて」と話題を切り替えた。

「もうじきに日が暮れる。親御さんを心配させるといけないから、今日のところは帰りなさい」

「は、はい。そうします。お邪魔しましたっ」

 僕がぺこりと頭を下げると、お父さんは「うん、うん」と頷いて、

「また、いつでもおいで」

 と、言ってくれた。

 門まで送ってもらい、もう一度お辞儀をしてから、僕は家路に着く。

 西の空にひときわ目立って輝く星を見つけた僕は、それを見上げながら、ふと考える。あの漫画の終わり。雪波さんが笑ってくれる終わり方を。

「きっと、笑顔にしてみせるからね」

 星に願いを込めて。僕は、僕の出来ることをやろうと決めた。

 もう、誰もがっかりさせたくないと思ったから。


 その感情は、ダメダメな僕の心に芽生えた、小さな勇気の欠片だったかもしれない。


~~~~~~


 十月の半ばになった。

 今日は、雪波さんが出る大会の日だ。

 僕は雪波さんのお父さんに連れられて、応援に来ていた。

「あっ」

 人ごみの中で、僕は雪波さんを見つける。

雪波さんも僕らに気付いたらしく、少し緊張した面持ちで近付いてきた。

「わぁ」

 その姿に、感嘆の声が漏れる。

 雪波さんは長い髪を整えて結って、青い着物を着ていた。それがとても似合っていて、なんというか、気品に満ち溢れているというか、理想そのものというか。

 とにかく、美しかった。絵にして家に飾っておきたいくらいだ。

「お父様。それに、歩さんも」

 あ、歩、さん……だとぅっ?

 名前を呼ばれて鼻血が出そうになる。そ、そういえばこの前、家にお邪魔した時も呼ばれた気がする……けどっ。

 や、やっぱりなんだかくすぐったいよっ。

「そう緊張するな。楽しんできなさい」

 お父さんの声で我に返る。

「そ、そうだよ。雪波さんなら、きっと大丈夫」

 僕も雪波さんに声をかけた。だって応援しに来たのだから、言葉をかけなきゃ意味がない。

 僕らの言葉を聞いた雪波さんは、拳を胸に当てて、「うん」と頷いた。

「それでは、行って参ります」

 ぺこりと頭を下げた雪波さんは、僕らに背を向け、歩いて行った。

「頑張ってね、雪波さんっ」

 雪波さんの背中がまだ緊張しているようだったから。たまらず、もう一声投げかける。

 雪波さんが振り返った。その表情は、最初は驚いたようだったけれど、すぐに微笑みに変化した。

 僕が手を振ると、雪波さんも小さく振り返してくれた。

「えへん」

 雪波さんが見えなくなったところで、お父さんが咳払いをする。

「……ところで、歩君」

「はい?」

「その。娘を苗字で呼ぶのは控えてくれんかね? わし、自分が呼ばれているようで複雑なのだよ」

 あっ。そういえば、雪波さんのお父さんも、お父さんなんだから「雪波さん」なのかっ。

 そんな当たり前の事に、いまさら気付いてしまう。お父さんの名前を実は知らなかったりするけれど、今さら名前を聞くのも気が引けるし。……っていうかそもそも、お父さんを名前で呼ぶわけにはいかないよね……。

「そ、そうですねっ。……あっ、あや、あやあやあややかささささんをっ。おっ、応援しししましょうっ」

 うわぁ~っ。やっぱりこっちも恥ずかしいよぅ。「あやかさん」なんて、落ち着かないよーっ。

「年頃の男児が、女の名前を呼ぶ程度で何を緊張しとるのかね」

 しっかりしなさい。と、背中を叩かれる。

「あだっ。そっ、そうですね。すいません。でも、突然名前で呼んだら驚かれるんじゃないかと思って……」

「うちの娘は、その程度で動揺するほどヤワではないし、愚鈍でもない。わしの娘だぞ?」

 お父さんは眉をしかめた後、にかっと歯を見せて笑った。

「そ、それもそうですね。あ、いや、そうですねっていうのも失礼な意味じゃなくて、あの、その……が、頑張ります」

 そこで、館内アナウンスを知らせるベルが鳴った。

『皆様、大変お待たせいたしました。ただ今より、第五十四回・神和(かむわ)いけばな芸術大会を、開催いたします。提供は、神和(かむわ)市民会館、廿楽内(つづらうち)デパート……』

「あ、始まりますね」

「うむ。わしらも、行こうか」

「あれ? お父さんは、主賓席じゃないんですか?」

「いいや。招待は受けたが、どうもあの席では、作品を生ける手順が見えにくくてね。客席でいいと、断っておいた」

「生ける、手順?」

「うむ。大会だからな。完成した品を出展するのではなく、その場で用意した花をいけこむ(・・・・)のだよ」

 へぇ。生花って完成した物しか見たことなかったから、大会もてっきり、品評会みたいなものだと思ってた。いろいろあるんだなぁ。

 僕、生け花についてはなんの知識も持たず来ちゃったけど。場違いじゃないだろうか。少し、心配だ。

「それと、お父さんはやめなさい。まだ気が早い」

「あ、いやっ、そういう意味じゃ……。ご、ごめんなさい。……雪波さん」

 そうこうしているうちに、大会が始まった。

 制限時間は四十五分。その間に、予め用意しておいた十五種類の花と、大会側から提示される五種類の中から一種類を使って、作品を生けていくのだそうだ。

「始めっ」

 開始の合図があった。

 参加者が、次々と花を切ったり、剣山に刺して花器に盛り付けたりしていく。その手つきは正確かつ素早くて、見ているだけでも緊迫感のある、一種のスポーツのようだった。

 そんな中。

「…………」

 ただ一人、雪波さんだけが動かない。

 目を瞑って、瞑想するように座っているだけだ。

「ど、どうしちゃったんでしょう?」

 僕は心配になって、お父さんの方の雪波さんを見上げる。

「ふぅん……」

 鋭い目で雪波さんを見るお父さんは、腕を組んで唸った。

「迷っているな」

 迷う? 一体、何を迷っているというのだろうか?

「どう生けるかを、ですか?」

もしかして、用意された方の花が難しいとか、そういうことなのだろうか。僕は雪波さんを信じているけれど、ちょっとだけ、心配になった。

「いいや。それはもう、十分考えただろう。大会側が提示してきた花も、これと言って使いにくい物は見当たらない」

「じゃあ、何に?」

「それは……」

 お父さんが口ごもった。

「家か、自分か、だな」

「家か、自分か……?」

 僕は呟きながら、あやかさんの方を見た。

「……」

 ぴんと張った背筋。凛とした表情。だが、雪波さんは、動かない。

 でも、その表情から読み取れたものがある。

「……あ……」

 確かに、雪波さんは迷っているように見えた。心が揺れているというか、両方から引っ張られているというか。とにかく、動きたくても動けない心情に悩んでいるようだ。

 きっと、この前のお父さんとの会話を思い出しているのではないだろうかと、僕は勝手に推測する。

 自分が求めるものは何か。それは美しいのかどうか。

 そして何より、彼女を苦しめているのは、それを「好きかどうか」。

 あくまでも、僕の勝手な想像だけど……。

「代々受け継がれた家の伝統か。はたまた、自らの信ずる好みか……。ふむ、どちらにせよ、良い顔をするようになった」

 お父さんが呟く。その顔は満足そうにも、寂しそうにも見えた。

「……っ」

 雪波さんが目を開いた。どうやら、迷いを打ち払ったようだ。

 優雅に、耽美に、ゆっくりと、的確に。雪波さんの手は寸分の迷いもなく伸び、次々と花を生けていく。花を生けるスピード自体は、他の参加者と比べ、雪波さんの方が圧倒的に素早く見えた。

 そして、次第に形が見えてくる。素人の僕にもわかった。雪波さんは、他の参加者とはまるで違う物を目指していることに。

「選んだか……」

 お父さんはため息交じりに、頷くように目を伏せた。

「自分の、道……?」

 他の参加者が花を生ける時は、侘び寂びを意識して、上手く空間を利用しているように見える。色も出すところは出し、押さえるところは押さえる。あえて余白を残し、バランスと物語性を重視する、と言った感じだ。

 だが、雪波さんは違う。大きな花をどかんと中央に刺して、それを華々しく彩っていく。素人目で見ても、それは明らかに他とは趣の違う作品だった。

「……やめっ」

 終了の合図がある頃には、参加者のほとんど全員が膝に手を置き、静かにその時を待っていた。

 四十五分はあっという間だった。なんというか、花を生けるその一挙一動が、まるで芸術作品のように思えるほど美しかった。誰がとか、そういう次元じゃない。この空間そのものが、無言で日本に古来から伝わる美意識というものを語っていた。誰一人として声を発さなかったし、カメラのシャッター音やフラッシュもなかった。

 とにかく。息をすることを忘れてしまうくらい、美しい時間だった。

「……」

 僕は場の空気に気圧され、ごくりと唾を飲み込む。

 作品が出来上がった後は、アピールタイムが設けられている。作品の意図を、観客と審査員に伝える時間だ。

 清流をイメージ。温故知新をテーマに。生命に対する壮大さと儚さ。そういった、伝統文化らしい厳かな言葉が連ねられていく。

 そして。

 ついに、雪波さんの番が回ってきた。

「では、次の方どうぞ」

「はい」

 きりっとした顔つきで、雪波さんが前に出る。

「わたくしは……。『怪獣』を、この作品に込めましたわ」

 辺りがざわつく。僕としては、あまり良い予感がしなかった。

「雄雄しく猛々しい怪獣も、いつか倒れ、地に伏せる。そんな様を侘びと捉え、派手さの中にこそ寂びがあると、わたくしは考えました……」

 その先の説明を、僕は聞いちゃいなかった。

 彼女が生けた作品が、どうしても目に入って仕方がなかった。

 黄色と赤の花が螺旋を描くように絡み合い、右側にだんだんうなだれていく。それを見下すように、中央の一本の青い花が高いところにぽつんと生けてある。とても派手で、目立つ作品。

 それは、まさに、怪獣の花。

 戦って。血を流し。それでも立ち上がろうともがくが、どうしても未来に手が届かない。そんな怪獣の姿を想像してしまう。生命の渇望。生まれてしまったことへの葛藤。そういった、何気なく倒されていく怪獣の、深いところを切り取ったようなテーマ性を感じていた。

 こんな事を言うと、誰かに「思いあがりも甚だしい」と怒られてしまうかもしれない。ただの妄想かもしれない。でも、それでも。僕は思った。まるであの作品は、僕へのメッセージなんじゃないか、って。

 だって。怪獣を勝たせてしまった漫画を読んだ時、雪波さんはこう言ったんだ。

 “これでは世界が救われない”……と。

 怪獣は、ヒーローに敗れなければならない。それは確かに、悲しい物語。

 僕は。いや、きっと僕だけが。彼女の説明の本当の意味を理解した。怪獣は何のために戦い、敗れ、散っていくというのだろうか。 雪波さんはその答えを、あの作品に、明確な意思を持って、閉じ込めている。

「はい。ありがとうございました。独創的でしたね。では、次の方、どうぞ」

 語り終えた雪波さんは、安堵とも、後悔とも取れる顔をして、「ふぅ」と小さくため息をついた。僕も一緒になって、「ふーっ」と緊張の糸を解いた。


 そして。時は流れ、結果発表の時が迫る。

「第五十四回・神和いけばな芸術大会。優秀賞を、発表いたします」

 雪波さんの番号は四番。凛とした立ち姿で、ただその時を静かに待っている。僕にまで緊張が伝わってきて、でも、僕にはもう、祈ることしかできなくて。

「優秀賞作品は……」

 四番……四番……四番……っ!

 僕は必死に、心の中で願った。

 四番……四番……っ。

 何度も、何度も。

 絶対、雪波さんに決まっている。雪波さんの素晴らしい作品が勝つに決まってる。そうに……。

「……三番、琴峰春花さん!」

「!」

 ・・・・・・。

「えっ……?」

 ぱん、ぱんぱん。クラッカーがはじけて、色とりどりの紙ふぶきがひらひらと舞う。

 そんな中。僕はあっけにとられて、ただ、ぽかんと虚空を見つめることしか出来なかった。

「おめでとうございます!」

「あっ。ありがとうございます! まるで夢みたいっ」

 満面の笑みで語る優勝者。僕は、そのすぐ横の、雪波さんを見る。

「……」

 その顔は、暗い。落胆のどん底。いや、あれは、虚無。目には光がなく、表情は仮面のように硬い。

「さて、惜しくも優勝を逃した、第二位は……」

 次々と受賞者の名前が呼ばれるが、その後も、その後の後も。雪波さんの名前が呼ばれることはなかった。

 ひとり、またひとりと名を呼ばれ。列から抜けていく。

 それでもまだ、雪波さんは呼ばれない。

「……嘘だ……っ」

 信じられない。そんなの、絶対嘘だっ!

 だが、素人の僕が何を評価したところで、結果は変わるものではないし、それに、無意味だ。むしろ、その行為は雪波さんを貶めることになるだろう。

「……嘘だよ……嘘だ……」

 無力な僕は、力なくうなだれることしかできなかった。

 結局、優勝者は無名の新人。入賞すらしていない雪波さんは、「その他の参加者」と名前ひとくくりにされてしまって、名前すら呼ばれることがなかった。

「……そんな……」

 結果は……十四人中、十三位。しかも、最後の一人は大会に初めて出たという小さな子ども。

 残酷な言葉だが、惨敗、ということなのだろう。

「まぁ、そうだろうな」

 お父さんが、冷静な口調で語りだす。

「流派というものには、それ相応の歴史がある。先人たちの歴史に、ぱっと出の思いつきが通用するはずもない。一応ここは、半世紀も続いているある程度大きな大会だ。無理もないよ」

 どうにも、現実というのは厳しいらしい。いくら自分が好きでたまらないテーマでも、それが他人の心に響くとは限らないのだ。

 痛いほどよくわかっている。僕だって、ロボットや怪獣といったものが好きだと言えずに、ひた隠しにして今まで生きてきたのだから。

 でも。

 わかってもらえないことを”悔しい”と感じたのは、これが初めてだったように思う。


「…………」

 表彰式も終わり、観客もちらほらと帰り始めた頃。

 雪波さんが、とぼとぼと歩いてきた。きゅっと唇を噛み締め、何度も瞬きをしながら。

「……負けて……しまいましたわ……」

 その様子を見て、お父さんの言葉を思い出す。雪波さんには、「他人の目を気にし過ぎるところがある」と。

 つまり、今。彼女は、心の底から恥じているのだろう。名門の名を、自分が敗北し汚してしまったと思い込んでいる。そんなことは、決してないのに……!

「わ、わたくし……まけ、て……」

 雪波さんの目に、涙が溜まる。

 唇がふるふると震える。少しずつ、口元が緩んでいく。

「わ、わ、わた、くしっ……家の、名を……っ」

 溜まった涙が溢れ出す。もう、止まらない。

「ご、ごめんなざいっ。ごめんなざぁぁいっ!」

 声を荒げて、泣き出してしまった。

「あああっ。ああぁあああぁあああっ!」

 地べたにぺたんと座り込む。ぐしっと鼻水をすすりながら涙を拭うが、それでも、まだまだあふれ出る。

 それは涙の洪水だ。決壊したまぶたのダムは、もう何も止めることは出来ない。嗚咽も、涙も、現実も……。何も止まらないし、変わらない。

「な、泣かないでよ」

 やるせなくなって声をかけたが、僕の声など無力だった。

 振り返って雪波さんのお父さんに助けを請う。だが、お父さんは目を閉じて、腕を組んだまま動かない。

「ぼ、僕は、雪波さんの……っ」

 泣かないで。お願いだから……。泣かないでっ。

 もう、そんな顔はさせないって、心に誓ったんだから!

「……あの生花、好きだよっ!」

 無力でもいい。馬鹿にされたって構わない。

「だって……」

 それでも僕は、君に、笑顔でいて欲しい!

「だって」

 僕は……。

「だって!」

 僕はっ。

「あやかさんがいけた作品だからっ!」

 貴女が、好きだから!

「……っ!」

 雪波さん……いや。あやかさんが顔を上げる。

「ひっく……今、ひっく……なんて?」

「あ、あやかさんが生けた生花、僕、大好きだよっ。だって、あやかさんが生けたんだもの! 好きに決まってるじゃないかっ」

 ぐすん。ぐすん。ぐすっ……。

 洪水が……止まった。

「名前で、呼んでくださるの……?」

 あやかさんの口から出たのは、予想だにもしない言葉で。

 それがなんだか、僕の心の中の最後の壁をぶっ壊してくれた気がした。

「当然じゃないか、大好きなんだからっ!」

 言ってしまった。彼女がひた隠していた感情を漏らしたように。僕も、ずっと心の奥底にしまっていた言葉を口に出してしまった。

 なんと言われようと後悔はなかったが。

あやかさんは……微笑んでくれた。

 彼女は何も言葉にしなかったが、その感情と、言いたい言葉だけはすぐに、僕にはわかった。

「うむ。天晴れ!」

 そこでお父さんが、ようやく口を開く。

「お前は、失敗した。歴史を無視して、我が道を進んだ」

 僕は、あやかさんを立たせようと手を伸ばす。あやかさんはその手を見つめて、しっかりと握り返し、立ち上がった。

「それは、決して間違いではない。今は認められなくとも、この先十年、二十年と突き詰めれば、きっといつか、正当に評価される時が来る!」

 お父さんのお説教を聴きながら、あやかさんは、僕に寄りかかるように体重を預けた。

 僕はそれを支える。自身を持って、しっかりと。

「一度や二度の失敗で諦めるな。他人からの評価を恐れるな。若人は、今を精一杯生き、楽しめればそれで良いっ。まだまだ未熟者、熟れておらねば味などわからぬ! その時までは、未来は輝いておると信じていれば良い! がっはっは!」

 最後に残った涙を拭うと、あやかさんは、ようやく笑顔になった。

「はいっ!」

 目は腫れて。髪は乱れて。着物は汚れてしまったけれど。

 これこそ。一番見たかった笑顔だと、僕は感じた。

「あら。雪波先生じゃございませんこと?」

 審査員の一人だろうか。けばけばの化粧をして、豪華だけどどこか古臭い着物を着た女性が近付いて来て、雪波のお父さんに話しかける。

「おや。お久しぶりですなあ。……あやか、わしはこの人と話があるから、先に帰っていなさい」

「はい」

「歩君、娘を送ってやってくれるね?」

「はい!」

 僕は、間髪をいれずに答えた。

「じゃあ、行きましょうか、歩さん」

「うん。行こうか、あやかさん」

 二人で並んで会場から出る。

 二人で並んで、並木道を歩いていく。

 そして僕らは、いつしか自然と、手を握りあっていた。


~~~~~~


 僕の物語は、あと少しで終わり。

 最後に重要なことが残っている。

「あれから、三ページくらい付け足してみたんだ」

 翌日の昼休み。僕とあやかさんは、校舎の屋上で、二人並んで座っていた。本当は立ち入り禁止なんだけど。たまには、ちょっと悪いことをしてみてもいいよね。怒られるかもしれないなんて知ったことじゃない。

「やっぱり、怪獣が勝っちゃダメだよね」

「そうですわ。怪獣がやられてしまうのは悲しいけれど、でも、物語には必ず、終わりが必要ですもの」

「うん。そしてそれは、もちろんハッピーエンドが良い。そうでしょ?」

「ええっ、そうですわっ」

 僕は、隠すことなく持ってきた紙束を、あやかさんに渡す。

 あやかさんはゆっくりと、わざわざ一枚目から、漫画を読み進めていった。


 主人公のアルスは、イデアスという機体に乗って、星を脅かす宇宙怪獣と戦うヒーローだ。

 ある日。超強力な怪獣が、彼らの星「ハトラエ」に迫ってきた。その名は、ゴウゴゲンドラ。星という星を蝕み、文明という文明を滅ぼしてきた、凶悪な侵蝕怪獣。

 全てを飲み込み、蝕んでいくゴウゴゲンドラ。アルスはイデアスを駆って、その侵蝕を止めるべく、戦いを挑む。

 ゴウゴゲンドラの力は強大だった。神秘的なイデアスの能力を駆使しても、徐々に追い詰められていく。

 とうとうイデアスは、ゴウゴゲンドラの攻撃の前に倒れてしまった。

 勝利を確信したゴウゴゲンドラは、天高くに向かって吼え、薄れゆく主人公の意識は途絶え、暗転する。


「ここまでが、以前読ませていただいた部分ですわね」

「うん」

 あやかさんは、さらに読み進めた。


 しかし。暗闇の中で、アルスは一筋の光を見た。

 それは、花だ。一厘の花。誰にも知られず、ただ道端に咲く野花。

 野花は地中深くに根を張り巡らせ、誰かに踏まれようと、雨風に打たれようと、必死に今を生きている。何があっても決して諦めずに、そこに立ちつくしている。

 アルスははっと意識を取り戻した。

「この星には、守らなければならない命がある。願いがあるんだ!」

 最後の力を振り絞ったイデアスは、ゴウゴゲンドラに抱きついて、絶海へと引きずり込んだ。

「僕は救う。救ってみせる。全部を、この世界の皆を!」

 のた打ち回るゴウゴゲンドラ。何度も、何度もイデアスを叩きつける。ボロボロに壊れながらも、イデアスは必死にしがみ付いた。

「そして……お前も!」

 とうとう、海の底に沈みきってしまう、一匹の怪獣と一機のロボット。

 しん。と静まり返る海。

 ぶくぶくと、海面に上がる泡。

「ぷはっ」

 パイロットのアルスが、海面から顔を出す。ゴウゴゲンドラから受けた攻撃によって隙間ができ、そこから脱出したのだ。

 激闘に疲れ果てたアルスは、なんとか地面に這い上がると、ドサリとその場に倒れこむ。

 そして、すぐ傍に生えていた小さな花に気付く。

「……お前は泣いていたんだろう? 独りが寂しくて。誰にも理解されないのが怖くて……」

 そう呟いて花を摘むと、まるで怪獣に捧げるように、海に向かって捧げた。

「僕も、同じさ……」

 風が吹き、花を空に舞わせる。花は高く高く上がっていき、そして、いつしか大海原のど真ん中にぽつんと落ちて、やがて沈んでいってしまった。

「“怪獣の花”か」

 それは、儚く散った命たちへの、弔いの言葉。

「綺麗だったな……」

 このセリフで世界は暗転し、物語は終わる。



 読み終えたあやかさんは、「ふぅ~っ」と満足げにため息をついた。

「どう?」

「とても……面白かったですわ」

 満面というわけでも、無邪気というわけでもなく。力を抜いたように、自然とこぼれでた、柔らかな表情。

 そう。これ。これだよ。

 僕はこの顔が見たかった。

 屈託のない、自然体のこの顔が。

「それはよかった」

 僕も、自然な笑みがこぼれた。

「でも、主人公が復活した経緯が、ちょっと意味不明ですわね」

「うっ。痛いとこ突くなぁ。仕方ないじゃない、シナリオを考える時間がなかったんだから」

 初めて二人の間で摩擦が起こった。あやかさんが悪いところを真摯に指摘して、僕がふて腐れるように反論を返す。

 でも。

「ふっ、うふふふっ」

「ははははっ」

 そんなもの、僕らにとっては些細な摩擦だ。

「ま、まあ確かに意味がわからないよね。もともと世界を救うヒーローだったんだから、今更“生きてる命があるんだー”って」

「セリフとしてのテンポは良いですから、もしアニメ化なんてしたら、メイゲンとして残るかもしれませんわよ」

「そうだね。立派な方の名言か、迷う方の迷言かはわからないけどっ」

「うふふふっ」

 そうやって、また会話の花が咲いた。喋りたい言葉が次々と頭に浮かんで。伝えたいことが、すんなりと口から出てきた。

「あ、そうだ」

 そこで、あやかさんが、何かを思い出したように手を鳴らす。

「わたくし、また新しい怪獣を考えたの!」

 そして、無邪気に喋りだす。

「今度は海の怪獣なのだけれど。優しい怪獣も考えたのよ。だから、また漫画にしてもらえる?」

 いつもとは、ちょっと違う口調。

 いつもとは、ちょっと違う仕草。

「……うん、もちろん!」

 いつもとは、ちょっと違う、僕。

 日差しの暖かい、小春日和の空の下。

 ()の物語が終わり、僕ら(・・)の物語が始まった。




 キッカケは、怪獣と花。




 それを描くは、君と僕。






キスどころか抱きしめ合う描写すらないなんて、『恋愛』とジャンル付けるには少々薄味だったかもしれません。

ですが、”恋”というものは、必ずしも「言葉」や「行動」によって起こる事ではないと思います。

例え、上手く伝えられない一方的な想いだったとしても。例え、心の中に燻ってよくわからない感情だったとしても。

”愛”という共通認識の下に培う感情は、何かしら重大な意味を持つことだと思うのです。


若さ故に浮足立った気持ち。大人になろうともがく思春期の青少年。そうした共感の中で芽生えた”愛”の形。こういった、「言葉」や「行為」の無い物語もまた、ある種の”恋愛”と言っても過言ではないのではないでしょうか。


ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。

最後にひとつ、疑問を投げかけて終わりたいと思います。


好きなことを純粋に共有できる相手が、あなたにはいますか?


いるとしたら、大切にしてあげてください。

いないならば、見つけるために一歩を踏み出してみてください。


それではまた、別の作品で。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ