第97話 楽園
今日も水浴びを楽しみ、そろそろ上がろうと、秀吉たちが先に立って、紅も後に続こうとした。
すると向こうの木立の陰から、助左が着物を脱ぎ捨てて下帯一枚になり、すうっと水の中に滑りこむのが見えた。
「紅さま?」
鞠が振り返った。
他の者は、助左に気づいていない。
「あ、あたし、もう少し、その辺を見回ってくる。」
先に帰っていて、と鞠に断ってから、紅ももう一度、水の中に静かに入った。
あれから彼とは全然、口を利いていない。
忘れてくれ、と言った言葉通り、本人は綺麗さっぱり忘れてしまったらしく、彼女に対する態度も、何事も無かったかのようだ。
覚えているこっちが馬鹿みたいだ。
うっかり口に出したら、お前、まだそんなことにこだわってんのか、しつっこい女だな、と笑われそうで、こちらから何か言うことは出来なかった。
それとも何か、ちょっと餌を付けて釣り糸を垂らしてみて、獲物が突っつくのを待っている、とか。
(試されているのか)
ひっかかったら、ちょっと遊んでやろうとでも思っているのか。
(あんなに綺麗で、お似合いな女性が待っているというのに)
彼女が今いないから、手近な女にちょっかい出してみようと思ったかのか。
あたしは魚じゃない。
岸から少し離れると、いきなり海は深くなる。
目の前を、半畳ほどもある亀がのんびりと過ぎていく。珊瑚が生える海底には、人の丈程もある大きなシャコ貝が幾つも並び、口をぼんやり開けて、獲物がかかるのを待っている。
彼はどんどん泳いでいく。
(何処へ行くんだろう)
水中での彼は、地上での彼よりずっと早い。
地上でだって、杖を上手く使って、随分と早く動けるのだが、先日、奴隷商人たちを追いかけたときはさすがに
(出遅れた)
彼がとても誇り高い男であることは、段々、わかってきた。
口には出さないけれど、彼にとって、地上で思うように身体が動かないことは
(屈辱だろう)
彼の泳ぐ姿を眺めた。
(魚みたい)
魚のほうも、彼が仲間だと思っているらしく、小さな群れが、銀色の鱗を光らせながら、彼のゆらゆらと海草のように揺れる金色の髪や、しなやかに水をかく長い手足に、纏わり付いている。
性格はどうかと思うけど。
(ほんとに綺麗)
彼が、魚を纏わりつかせながら、岩場の陰に消えた。
そっと覗いてみた。
はっとした。
魚の群れが、彼を見失って、ばらばらになっている。
あっと思ったときには襟首を掴まれ、そのまま、水面に引き上げられた。
ぷはっと息を吐いた。
「俺の後ろに回るんじゃねえ。」
助左も大きく息を吐いて言った。
「何でつけてきた。」
「何でって。」
怖い顔をしている。
「何か……楽しそうだったから。でも帰ります、さよなら。」
そそくさと泳いで去ろうとした。
「待て。」
助左が呼び止めた。
「俺、これから秘密の場所に行くところだったんだ。見たいか。」
「いいです。」
即座に答えた。
「見せてやる。」
「だって秘密の場所なんでしょう。」
「つべこべ言うんじゃねえ。ついて来い。」
水に潜った。
仕方なく後を追った。
魚の群れが又、彼を見つけて、喜んで寄ってきた。
海神のように魚たちを従えて、彼は深く深く潜っていく。
岩場に潜り、すり抜けて、洞窟のようなところに入って行った。彼女一人だったら入っていくのをためらうような細く狭いところを、身体の大きな彼が、何の恐れ気も無く、すり抜けていく。
急に頭上が明るくなった。
そこは巨大な洞窟だった。
天井は抜けて青空が見え、光が一杯に差し込んでいる。
外洋から岩で隔てられて、波は穏やかで、底には一面に色取り取りの珊瑚が広がり、大小様々の彩り豊かな魚たちが群れ遊んでいた。
ここにいる魚たちも、助左が泳いでいると、喜んで纏わり付いている。
彼が彼女に、手を差し出した。
手を繋ぐと、魚たちは彼女の周りにも寄ってきた。
手を取り合って、魚と共に泳いだ。
幸せだった。
海とも魚とも彼とも、一つになったような気がした。
泳ぎ疲れて、洞窟の岩場に並んで腰を掛け、息をついた。
「ずっとこうして泳いでいられたらいいのに。」
紅が言った。
「水中で息が出来たら、魚と一緒に暮らせるのにな。」
助左が言った。
笑みを交わした。
「あ、わかった。」
なんで今まで気が付かなかったのだろう。
「坊ちゃまの目の色。」
青とも碧ともつかない、色。
「この海の色なんだわ。」
彼の目を覗きこんだ。
彼女が小さく、彼の瞳の中に映っている。
(水の中にいるみたい)
彼がふいに彼女を抱きしめ、彼女の唇に自分の唇を重ねた。
あまりにも自然な動作だったので、一瞬、当然のことのように受け入れてしまったが、次の瞬間、我に返った。
彼の腕から逃れて、するりと岩から滑り降り、少し泳いで、別の場所に上がって腰掛けた。
動悸がおさまらない。
「俺、こんな脚だろう。」
助左は紅を見つめながら、自分の左足を軽く叩いた。
「どうしても思うように動けねえんだ。でも、水の中じゃ、誰にも負けない。」
水中を眺めた。
さっきまで一緒に泳いでいた魚たちが、水面まで上がってきている。
泳ごうよう。
助左を誘っているようだ。
「ここに居ると、自分の本来の姿に戻った気がする。」
自分の秘密の場所に連れてきて、自分が一番認めたくない、弱みを見せた。
これは
(あたしを)
自分の心の一番、柔らかい部分をさらけ出せる者として認める、ということだろうか。
「今日は楽しかった。さあ、皆のところへ戻ろう。」