第94話 Caravel
探検隊が組織され、周辺を回ってみたが、どうやらここは島のようだった。
やはり海賊たちの所有していた船でしか、この地を脱出する手段は無さそうだった。
船の種類はCaravelといい、二百トン弱、船長は百フィート弱、三本マストで、大三角帆と横帆を組み合わせて備えている。少人数でも扱うことが出来、機動性に優れ、三角帆を使って、逆風でもジグザグに風上に切り上がっていくことが出来る。
アメリカ発見の航海にも同行し、コロンブスは、ナオ船の旗艦サンタ・マリアよりも、軽快なカラヴェルのニーニャ号がお気にいりであったという。
船は嵐でかなり傷んでいた。
水漏れを防ぐ為に船の横板の間に詰めてある槙皮{檜や高野槙の甘皮を裂いて作った繊維}が、波に揺られているうち摩擦や振動で徐々に吐き出されてきて、手の幅ほどの隙間が出来ているのも見つかった。放っておけば、船は、いつ沈んでもおかしくない。
垢水溜まり{船艙の下にある空間・艦内に入った海水や廃水の溜まり場}には吐き気を催すような臭気を放つ汚水が満杯で、タプタプと音をたてていたし、船底には船足を鈍らせる海草やフジツボがびっしりこびり付いている。徹底的な掃除が必要だった。
貯蔵品や調度品を移動して、床を掃き清め、船の一番下に積んであるバラスト石が汚れて悪臭を放っているのを、外に放り出して、綺麗なものに積み替えた。
船倉の扉を開けると、いきなり明るい光が差し込んできたので驚いた熊鼠が何匹か走り出してきたが、その後を追って、茶色い縞の小さな猫も飛び出してきた。食糧を荒らす鼠を取る為、飼われていた猫だった。蚤だらけだったのを、取って綺麗にしてもらい、船のマスコットとして皆に可愛がられた。鞠に懐いて、暇さえあれば膝に乗ってきた。
そこかしこ修理しがてら、翌日からトーマスに教わって、助左たちは操舵の練習を始めた。時間はかかるが致し方ない。
日本の船乗りにとって、南蛮の航法はなんとも受け入れがたいものであったが、それでも結局、努力したのは、船長が天川に住んでいたこともある混血の助左衛門であったということと、この船をなんとしてでも操船しないと日本に帰りつけないという危機感の為せる技であった。
彼らの先生になったトーマス・ハリオットは、新大陸の探検を計画したサー・ローリーのため、最新の数学や科学に基づく遠洋航海術を開発し、その屋敷でイギリス人の船長たちを教育した。知的好奇心の強いトーマスは、彼自身が船乗りでも何でもないのに関わらず、船乗りたちに接近し、当時の航海術の実際やその問題点について思考を重ねていたのである。彼の仕事は、後にイギリスが海洋国家として名を馳せる第一歩となった。
トーマスが教えてくれた航海術は、世界の最先端をいくものであった。
例えば、筒を海に投げ入れて水深を測る方法を習い、太陽や星の位置を測定し、航海暦や星座表によって緯度を算定し、航海中の船の位置を決定するやり方を習った。
十八世紀になって海上用時計が完成するまで、正確な経度の測定は出来なかった。緯度だけが、太陽と北極星を観測して算出することが出来たのである。
このようにして緯度を決定した後、更に羅針盤を用いて船の方向を知った。
羅針盤には、東・西・南・北・偏北北々東などのポルトガル語で書かれた度目盛りの上に、和式の南・南々西などの常用語が書かれた紙が貼られた。
そのほか、礼恃盻度と称して航海者の規箴ともいうべきものを掲げて、天気の変化を予知すべき、多くの箇条を挙げた。
後、これらの知識を取りまとめた『元和航海記』によると、太陽や月、星などを見て大風を知る方法が書いてあり、例えば『朝日、黄色に見え、村雲、下に棚引かば、北風吹くべし』『日の出るとき、常よりも大きに見へば、三日目に大風吹くべし』などがあった。
日本側の装置について、トーマスが興味深く目に留めることもあった。
例えば、難破した和船から回収された逆針式の船磁石である。
これは目盛りを本針の逆廻りに盛った物で、指針の指す方位が直ちに船の進行方向を示す点、簡単ながら優れたアイデアで、日本独自の物だった。トーマスはこれは便利だと言って喜び、思わぬ日英交流の場となった。
その他、帆やマスト・綱・索の名とその使用法、燃え易い木造船で決められた三箇所{台所、艦長室、航海用羅針盤のある操舵室}以外に火の気が無いことを確かめる必要があることから、船の右舷は高貴な側で将校や賓客の乗船する側であり、左舷は捕虜や処罰を受けた者の乗船する側であるなどという習慣まで、多岐にわたって講義が続いた。