第93話 頭
救い出された人々の中に、助左の船の乗組員は爺さんと兎丸だけで、残りは嵐の中で死んでしまった。
帆船の上で協議した。
「弱ったな。」
助左が言った。
「船が沈んじまって無え。」
「この船があるじゃありませんか。」
紅が言った。
「これに乗っていけばいいじゃないですか。」
助左とレヴロンは顔を見合わせた。
「お頭。」
猫が言った。
「えっ?誰?」
「あァたですよ、お頭。」
辛抱強く繰り返した。
「あァたがいらっしゃらなければ、この船は尻に帆、架けて逃げちまって、爺さんたちは連れ去られ、あっしらはここで置き去りになるとこでした。だから、あっしらは感謝の念を込めて、あァたに、この称号を捧げます。」
「おいおい、俺は聞いてねえぞ。」
助左が抗議した。
「コイツのほうが偉そうに聞こえるじゃねえか。」
「喜んで受け取るわ。」
紅は澄まして言った。
「有難う。ところで何で、船を操縦できないの?」
「俺たちと奴らとでは、船の運航方法が違うんだ。」
この頃の和船は基本的に、目視で運航していた。『山あて』といって陸地にある特徴のある地形を目標にする。だから外洋に出ても、海岸に沿い、島伝いに渡っていくしかなかった。これを『地乗り航法』という。
一方、
「南蛮人は、太陽や星を頼りに、機械を使って自分のいる位置を割り出す。」
助左は言った。
つまり羅針盤を使用していたのである。
「俺も小さいとき父から教わったが、随分昔のことだからあやふやなんだ。」
「じゃ、船があっても動かせないのね。」
誰かまともな人間が乗った船が沖合いを通るまで、待つしかないのか。
でも、その船が海賊船じゃないって、どうやって判断したらいいの?
「デハ、私ガ教エマショウ。」
皆、一斉に声のしたほうを見た。
そこにはあの、競りに掛けられていた異国人が立っていた。
細面、先の尖った顎髭を生やし、賢そうな広い額、まだ若いのに、濃い茶色の髪は既に随分と後退している。地味な黒い服を着て、筋張って痩せてはいるが、意志の強そうな生き生きとした目をして、皆の前に歩み出た。
「私ノ名ハ、Thomas Harriot。数学者デス。」
「数学?」
「御国デ言ウトコロノ『算術』ヲ研究シテオリマス。私ハ、操船方法モ知ッテイマス。オ教エシマショウ。」
「ところで」
助左が聞いた。
「ここは何処ですか?」
「Philippines」
即座に答えた。
皆、顔を見合わせた。
初めて聞く名前だった。
「オ国デハ、『呂宋』ト呼ンデイルヨウデスガ。」
『ルソン』とは原住民の言葉で『木の臼』を意味するという。『呂宋』はその中国語読みである。
フィリピンとは、スペインの探検家ビリャロボスが、当時の皇太子フェリペにちなんで命名したものである。
「それにしてもひでえ奴らだ。同じ南蛮人を奴隷にして競りに掛けるなんて。」
「イエ。私ハ、Englishデスカラ。」
はぁん、と言って、助左と手下たちは顔を見合わせた。
「え、どうして?」
市松が大声で尋ねた。
「敵同士だからですよ。」
助左がトーマスに代わって答えた。
イギリスがローマン・カトリックから脱却して新教を打ち立てて以来、旧教の守護者を以て任ずるスペインといがみあっていたが、一五五八年にエリザベス一世が即位してからというもの、その対立は激しさを増した。それまで消極的な対外政策を取っていたイギリスが、にわかに異国船に対する海賊行為を開始したからである。イギリスは、公海上における他国船が運ぶ財産・財宝の略奪を、女王自らの認可の下、国家を挙げて行った。その対象は主に、新大陸からの金銀財宝を運ぶスペイン船だったのである。
トーマス・ハリオットは、平民の子供だったが頭脳明晰で、オックスフォード大学を優秀な成績で卒業した。
女王の寵臣サー・ウォルター・ローリーの学友であり親友で、彼の財産管理を任されるほどであった。
探検家でもあるサー・ローリーの手助けをしていたトーマスは、新大陸におけるイギリスの植民地の調査をしていた。そこでスペイン人に捕らえられ、はるばるフィリピンにまで連れてこられたのだ。
「日本語、お上手ですな。」
秀吉が言った。
「日本人カラ習イマシタ。」
助左のほうを向いて、あちらの言葉でしゃべり始めた。
「Spagnoloに雇われて新大陸に渡った日本の傭兵達から、言葉を習ったんだそうだ。」
助左が通訳してくれた。
「この船は、外洋を航海するこの手の船にしちゃ、小さい方なんだ。この人に操船方法を教えてもらい、羽柴さまの御家来衆にも手伝っていただければ、何とか動かせそうだ。」
「イギリスって、南蛮の国とは違うんですか?」
紅が尋ねた。
「もっと北方だ。俺の先祖の故郷に行く途中にある国だ。Ingleseは紅毛人と呼ばれている。」
助左が答えた。