第92話 逃亡
紅は、脱兎の如く駆け出した。
小太郎も後に続いた。
「おいっ、待ってくれ!」
出遅れた市松は慌てたが、止まろうか。
助左は、自分の足では追い付かないと見て取って、
「レヴロン、頼む!」
黒人に声をかけた。
レヴロンは藪をなぎ倒しながら、戦車のように走り始めた。
紅と小太郎は、最初に打ち寄せられた外海にたどり着いた。
母屋から逃げ出した奴隷商人たちはもう既に艀を漕ぎ出していて、船に近づいている。船からは梯子が下ろされ、嫌がる奴隷たちを急かして、乗り移っていくのが見えた。
「奴ら行っちまう!」
小太郎が叫んだ。
「あそこにもう一艘、ある!」
岸辺に、艀が抑留されている。
大分傷んでいるが、乗れないこともないだろう、と踏んだ。
レヴロンが追いついた。
紅と小太郎を艀に乗せて、レヴロンが大車輪で腕を振りながら漕ぎ出した。
「何か変!」
紅が、艀の下に敷いてある筵を取ると、底からどんどん水が染み出している。
「まずい、沈んじまう!」
小太郎が、懸命に水を掻き出し始めた。
向こうの船はゆっくりと、向きを変えだした。
「間に合わねえ!」
レヴロンが唸った。
船の向きが変わったので、こちらから舵を取っている男がよく見える。
紅は決心した。
「ここから、あの操舵手を撃つ。」
「無理だ、下から上に向けて撃つんだぞ!」
「だから」
紅はレヴロンに言った。
「肩に乗せて。」
「おい……むちゃだろ……。」
小太郎は絶句した。
紅はお構いなしにレヴロンの肩によじ登り、その上で立ち上がった。彼はニメートル近くあるので、その上に立つだけで三メートル半以上の背になる。
さすがに高い、と思った。
彼女の気持ちを見透かすように、レヴロンが言った。
「大丈夫だ。俺を信じて、身を任せろ。」
沈みかけている、揺れる小舟の上に立っているというのに、彼は抜群の安定感でびくともせず、足場として申し分なかった。
小太郎が、船の焚いている篝火から零れる光を頼りに、玉薬を装填した。
紅は、小太郎から火をつけた銃を受け取ると、狙いを定めた。
撃った。
操舵手がばったりと倒れるのが見えた。
別の男が舵に取り付いた。
小太郎に銃を返し、弾を詰めてもらった。
又、撃った。
倒れる。
我ながら
(今日は冴えてる)
足元はどんどん沈んでいくが、構うものか。
小太郎は要領よく銃に弾を詰め替えて、手渡してくれる。
火縄銃は一人で撃つと、弾込めの時間がかかる為、一分間に二発しか撃てないが、弾込めの介添えを付けて連射すると、六発も撃てるという。
舵に取り付いている男を又、撃った。
「お前、性格はとんでもないが、鉄砲の腕は神業だな。でも、これが最後だ。」
銃を渡すと、小太郎は海に飛び込んだ。
もう艀は、縁のみが海面にある。
又、操舵手を倒した。
紅はレヴロンの肩から海に飛び込んだ。
続いてレヴロンも泳ぎだした。
こちらの艀も沈んだが、あちらの戦意もすっかり砕けたようだった。
爺さんが甲板で南蛮人と争っているのが見えた。その隙に、兎丸が梯子を船から下ろした。
南蛮人たちは敵わぬとみて、次々に船から海に飛び込んだ。
浜を目指して泳いでいく。
こちらからでは、とても追いつかない。
「あっ、逃げちゃう!」
「大丈夫、あいつがいる。」
レヴロンが岸を指差した。
ようやく皆に追いついた助左が、海に飛び込んだ。
「だって、大勢……。」
数人はいるのに。
「まあ見てろ。」
大男は言った。
彼の言ったとおり、紅が浜に泳ぎ着く前に、勝負は終わっていた。
助左は、さんざん水を飲まされて人事不詳になった奴隷商人たちを浜に綺麗に並べて、まだ泳いでいる紅たちに手を振った。