第7話 軍師
「よろしいですか。」
紅は廊下から声をかけた。
「入れ。」
部屋の中から声がした。
宇佐美定行は書物を広げていた。
二人は今、坂戸城の一室に居る。
見舞いの後、すぐ帰るつもりだったが、この家の次男にぜひ教えを、と乞われて、滞在が伸びている。
「お話があります。」
「申せ。」
「樋口与六のことです。」
紅は言った。
彼も願いが叶って、若君とそのお付きの者たちの末席に加えてもらえることになった、が。
遅刻してきたり、着物が汚れていることがある。目の下や頬を僅かに腫らしていることもある。
「先日の広間での出来事が噂になって」
生意気だといびられているらしい、と紅は言う。
「本人は、それについて何も言わず、歯を食いしばって我慢しています。」
「それで。」
「それで、って……ひどいです。いじめている者を懲らしめてやりたいです。」
「そちが出て行ってどうする。」
定行は言った。
「ずっと付いていて庇ってやるつもりか。放っておくがよい。」
むくれている孫娘を見ながら思った。
(やれやれ、誰に似たのか、わしの孫とも思えぬ直情径行の娘じゃな。この正義感の強さが、後の人生に災いを呼ばねば良いが)
もっとも自分の人生を振り返っても、決して利ばかり追求してきたわけでもないが。
長生きするのも、と定行は思う。
考え物じゃな。
(見たくないものも見えてしまう)
さて、どうするか。
(帰りには府中に寄って、お屋形さまに会わずばなるまい)
与六は暫くすると、いじめられている様子が無くなった。紅が何か言ったからではなさそうだった。
定行は与六を一人、庭に呼び出した。
山蛍袋の花の、白や紫が一面に広がっている。
その傍らにかしこまると、幼い与六は、花に住んでいる小人のようだ。
「分をわきまえろ、と言われました。そこで答えました。私の分からすると、将来は父の跡を継いで薪炭奉行になるだろう。私は大層物覚えがいいといわれている。さすれば将来、あなた方がおいでの部屋や陣中は真冬、雪の降る中、薪炭が十分いきわたらないということも考えられる、と申しました。」
見たところ年より幼く見える口から、すらすらと答えが出る。
「私は兎を獲るのが得意なのですが、その後、罠を仕掛けて兎を獲ってきました。例の連中に兎をやって、私と仲良くするといいこともあるかもしれない、と申しました。これは」
自分が身に着けている新しい着物を見せた。
「連中が呉れたものでございます。」
「ふむ。自分で解決したか。」
「話のわかる連中だったから助かりました。もっと殴られて終わることも珍しくありませんから。」
平然として言った。
「そなたは」
定行が言った。
「皆を納得させる道理を知りたい、と言ったな。」
「はい。」
目を輝かせた。
「殴られるのは慣れていますが、出来たらやめてほしいです。痛いから。」
幼い子供の表情に戻って言った。
「残念だが、そんなものは無い。」
定行は言った。
「この世は分というもので成り立っている。基本だから、それを越えようとする者が叩かれるのは当たり前じゃ。」
与六は露骨に落胆した顔をした。
「どうじゃ。わしに学問を教わるのは嫌になったか。」
「はい……少し。」
定行は笑った。
「正直な奴じゃの。」
真顔で言った。
「人の世界は嫉妬で成り立っているのじゃ。他人が持っている物は、自分も欲しい。自分が持たない物を、他人が持っているのは許せない。足を引っ張って、自分と同じところまで引きずり落としてやりたい。もっともそれで、世の中が常識的なところに落ち着くということもあるから、全く悪いばかりとは言い切れない。大多数の平凡な人間にとっては、競争を回避する安定した世界は住み易いからの。問題は、それでは満足出来ない人間じゃ。」
言葉を切って、与六を見据えた。
「そちはそれでも高みへ上りたいのじゃろう?ならば、回り道に見えても、何の意味もないように思えても、学べ。さすれば、もっと世の中がよく見えるようになる。見たくないものも見えるようになるかもしれぬが、それでも学んで、見よ。学問は、世の不正を正し、不公平を無くす手助けになるのじゃから。それが分を越える方法よ。他に道は無い。」
与六の表情を見てとって、笑った。
「そちにはまだ、難しいの。」
「私はもう子供ではありませぬ。」
気負って言った。
「今はわからなくても、お言葉はしっかり心に刻んでおきます。そのうちわかるようになるまで、がんばります。」
「がんばっているといえば」
定行は微笑んだ。
「そなた、詩が好きなようじゃの。」
「あ、はい。」
表情が明るくなった。
「面白いです。」
「詩の本を貸して進ぜよう。古の人の筆を知るのも、立派な学問じゃ。」
蝦夷紫陽花の花が、今を盛りと咲いているのを見ながら言った。