第81話 嵐
だが残念ながら風雨はひどくなる一方で、船はどうやら嵐の真ん中に突入したようであった。
船は波に翻弄された。
波の山の天辺に登っては谷底へ突き落とされ、又、天辺に駆け上り、落ちていった。
雷鳴が轟き、稲光が空を切り裂いて渡っていく。
叩きつけるような雨に、伸ばした手の先さえ朧に見える。
もう船酔いなどしている余裕は無かった。
屋形{船室}は水浸しになり、合羽に上がらざるを得なかった。
船を安定させるため、とうとう帆柱は切り倒されてしまった。今は細い方の弥帆柱{舳先に近い二番目に太い柱}だけが、虚空に心細く突っ立っている。
紅は独り、垣立にしがみついて座り込んでいた。さっきまで小太郎や猿若、秀吉主従と一緒だったのだが、逸れてしまった。
堺じゃいっぱし女将さんと気取っていられても、船の上では積荷以上に役に立たない。殺気だって慌しく走り回っている乗組員の邪魔にならないように、物陰でただ大人しく控えている以外なかった。
時々、幻のように人影が現れて懸命に船を救うために働いては消えていくのを、目だけで追っていた。その目も叩きつける風雨で霞み、手は痺れて今にも波に浚われそうだ。
誰かが、自分の方に近づいてくるのが目に入った。
(坊ちゃま……)
彼も今日は、長い髪を一まとめに括り、袴を履いている。肩には一巻の縄を担いでいた。
彼女の手を引っ張って立たせると、前合羽に連れて行った。弥帆柱に手を回させると、縄でぐるぐる巻いて彼女の身体を縛り付けた。
そのまま何も言わず去っていこうとするので、思わず腕を掴んだ。
彼は大声で、
「しっかり摑まっていろ!」
と言うと、行ってしまった。
独り残されて、不安で胸が押しつぶされそうになった。
気が付くと、足元の床にぴしぴしと亀裂が入っていく。
(沈むんじゃないか、この船)
初めて気づいた。
彼を、か細い声で呼んだ。
戻ってきて欲しかった。
だが誰も来なかった。
和船は、形としては丸木舟と同じである。
洋船、中国船が竜骨・肋材で骨組みを作り、隔壁で浸水に備えていたのに比べ、和船は積載量重視だったのである。
合羽は板を嵌め込み、並べただけの構造である。大波を食らって、ひとたまりもなかった。
突然、足元が波に砕けて無くなった。
渦に巻かれ、暗黒に吸い込まれていった。