第79話 琉球
幕府は、倭寇の跋扈に辟易した明と勘合貿易を行った。その際、兵庫が発着の港として用いられた。兵庫から瀬戸内海を通り、北九州から五島列島付近を経て大陸に向かう。帰りはその逆をたどる。だが応仁の乱以来、幕府と管領の細川氏が、中国地方を支配する大内氏と対立し、瀬戸内海を航行できなくなってしまった。そこで幕府と細川氏の出した船は、明からの帰り、瀬戸内海を避け、南九州から土佐沖を通り、紀伊水道を経て、堺に戻って来た。それ以来、この南海航路が堺商人の大陸への道となった。
船は琉球{今の沖縄}を目指している。
明は朝貢関係にある国しか交易を許さなかった。明と日本の交渉は戦乱によって絶えてしまったが、琉球王国は明と朝貢関係を結び、当時、東アジアにおける仲介交易で栄えていた。
琉球は同時に幕府とも親交を結び、日明両属の国であった。大陸まで足を運ぶ必要が無いので、琉球との交易は大変盛んだったのである。
途中、土佐の浦戸で、先行した船団と落ち合う約束だった。ところが港に入っても船団は影も形も無い。風が変わり始めていて、どうも嵐が来そうだというので、助左たちを待たずに先に行ってしまったのである。
当時の和船は、洋船や中国のジャンクと違って竜骨を持たない。平底で錨は木製、帆は草の網代を使用しており、滑車で上げ下げした。同時代のオランダ人は和船のことを『水桶』と表現している。大型船でさえ基本的に外洋航海用の船とはいえず、艤装によって遠洋航海に転用していたというのが実態であった。
遠洋航海用に作られていた洋船でさえ嵐に会うとひとたまりもなかった時代である。
船を出していいのかどうか、検討がなされた。
ぐずぐずしていると、先に行った船団が何処かの港で寄港した際、奴隷たちが売り払われてしまう恐れがあった。
無理を承知で灰色の空の下、出港した。
前にも増して海は荒れている。
ようやく船にも慣れてきたと思ったのに。
又しても、船酔い地獄に逆戻りと相成った。