第78話 何処でもない場所
乗組員のうち、彼が特に手足のように使っている者が四名いる。
顔だけは知っていたけど、関わりは無かった。そのうち猫とは既に知り合いだが、今回船に乗っているうち、彼らともゆっくり会話する機会を持つことが出来た。
「これは何なの?」
船には一人だけ、子供が乗っている。
その子はいつも、これも又、船に一人だけ乗っている老人に指示されながら、船端に備え付けの、大きく太く長い鉄砲のような物を綺麗に磨いている。
いつ側を通っても熱心に磨いているので、好奇心を押さえられなくなって、尋ねてしまったのがきっかけだった。
「これはさ、大砲だよ。」
子供は得意そうに言った。
「え、大砲?大砲ってもっと大きい物かと思ってた。」
まじまじ見つめた。
「こんなに小っちゃくて、ものの役にたつのかしらん?」
「馬鹿こけ。」
いつの間にか後ろに立っていた老人が言った。
「船の上じゃ、砲は小さければ小さいほど役にたつんじゃ。合羽{甲板}は狭いからの。砲身が短ければ短いほど操作し易い。」
「あたしは越後の柏崎という港の出だけど」
紅は言った。
「越後の船にこんな物は積んでなかったわ。」
和船に限らず、東洋の船は今まで武装してこなかった、南蛮人が姿を現すまでは。
それは艦砲としては最小のDemi-culverin{メディオ[半]・カレブリナ砲}だった。
当時、洋船の一般的な艦載砲であるカルバリン砲は、元々は陸上の野戦で使用されていたのを艦搭載にしたものである。口径が五センチから十センチの小口径砲で、元は鉄製だったが、この頃には青銅製になっていた。ラテン語のcolubrinusに由来するその名のとおり、細長い蛇に似た長い砲身を持ち、音速を超える秒速五百メートルで八キログラムの砲弾を飛ばす。
デミ・カルバリン砲はその小型版で、口径は四センチから六センチ、カルバリン砲の半分くらいの大きさだったが、射程距離は二百から三百メートル近くあった。
当時の大砲は破壊力が弱く、敵船の船体に損害を与えることは難しかった。そこで、戦いの始まる前、敵船の射程距離外から発射して、予め敵兵員の殺傷を図る目的で使用された。
デミ・カルバリン砲は小さいだけあって、カルバリン砲よりも軽量で扱い易かった。弾丸は鍛造の鉄球である。
この砲は、外洋に出ていくにあたって、万が一のために助左が取りつけたのだった。
少年の名は兎丸といった。中国人と日本人の混血で、播磨の室津に住んでいたのを、助左が博多へ行くとき、一緒に連れて行った。
老人は伊之助といい、博多の店の主人に雇われていたが、店じまいしたとき、助左を慕ってついてきたとのことだった。
伊之助は飯炊きも兼ねている。
世間一般の船では、飯炊きは一番若い見習いが担当するそうだが、前の船主の考えで任命されたのを、そのまま踏襲しているという。確かに、何の変哲もない粥でも、伊之助のそれは、口当たりは滑らか、塩加減も程良く、船酔いした胃にも滅法、優しかった。
猫は、人当たりはいいが掴みどころの無い男だと紅は思っていた。何でも元は、博多の主人の亡くなった弟が、遊女に産ませた子だったが、放蕩が過ぎて勘当された。助左の下に付けられて、彼が面倒を見ていたという。助左より三つばかり年下で、兄のように慕っている、という。
「坊ちゃま、結構、評判いいんだ。」
紅がうっかり本音を漏らすと、
「一回、思い込みを取っ払って人を見ることも大切だな。お前は殻が固すぎる。それだけ苦労して来たんだろうが、見えてしかるべきことも見えなくなってしまう。」
共に合羽を掃除しながら、達者な日本語で忠告された。
それは例の黒人の大男で、名をレヴロンという。外人のこととて、それまで見ただけでは年齢はわからなかったが、話を聞くと助左より二つ上なだけだった。
あいつはCafreなんだ、と助左は、カフル、と発音して言う。遥か西にあるアフリカという所から来たという。
彼は部族の戦士だったが戦に敗れて捕まり、奴隷として売られた。宣教師に買われて天川に来た。そこで同じく奴隷だった日本人と知り合いになり、日本語を習った。
懸命に勉強したのと、元々才があったのか、言葉が出来るようになったため、彼の運命は変わった。宣教師に連れられて日本に来た。
当時の教会は金に困っており、彼を船賃代わりに船主に譲渡した。それが助左の主人だったのである。
「主人が亡くなったとき転売されそうになったが、助左が大枚叩いて俺を買い取ってくれた。そして好きなところへ行け、故郷に帰るのもいい、俺も故郷に帰るんだから、と言ってくれた。でも俺の故郷は遠い。年月もたって最早、俺の知っている地ではなくなっているだろう。俺は、彼と共に生きていくことに決めたんだ。」
レヴロンは、背が高く胸板厚く、腕にも足にもしっかりと筋肉がついた堂々たる体躯の持ち主で、成程、強い戦士だったろう、と思われた。でも黒々と輝くその目を見れば、彼が力のみならず、その思慮深さで、皆の尊敬を集めていたであろうことが、容易に推察出来るのだった。
助左と全く対等に接して、助左も彼の意見を尊重し、時には彼に従っているように見えた。
「どっちがCapo{首領}?」
と紅がからかうと、
「Silenzio!」
と助左は言ったが、満更でもなさそうだった。
「坊ちゃまのお船の人たちは、たとえ日本人でも皆、日本の人ではないように見えます。」
紅が言うと、
「色んな国から来た人間といつも一緒だと、何処の国にいても不思議ではねえが、何処の国の人間でもねえ奴になっちまうんだ。」
助左は言った。
「海は何処の国の物でもねえからな。」
「へえ……。」
国からも領主からも自由。
「いいところですね。」
紅が、海の彼方を見ながら呟くと、
「だろ?」
助左は垣立{手摺り}に寄りかかって、空を見上げた。