第76話 出帆
翌日、船は琉球{沖縄}に向けて出港する筈だったが、助左は二日ばかり日延べする、と言った。
渡海する船は、数隻で船団を組んで行くのが常だが、他の船には先に行ってもらう、と言う。
「ご贔屓に預かっている羽柴さまを放ってはおけないだろう。出来る限り協力する。」
於寧さまを発見し次第、先に行った船を追いかける。
店の者全員で、手分けして探した。
半日たって日の沈みかけた頃、再び店に集まった。
ところが、今度は鞠が戻ってこない。
小太郎は真っ青になった。
紅は頭を抱えた。
いったいどうなっているのか、皆目、見当が付かない。
こうなると、頼みの綱はやはり猿若であった。
姿を現すのを、一日千秋の思いで待った。
二日待ったが、何の音沙汰も無い。
風が変わりかけていた。
助左は出帆を決意した。
紅は港まで見送りに出た。
「留守を頼む。」
彼女をじっと見つめて言った。
これで九ヶ月、会うことは無い。
ほっとしていない、と言ったら嘘になる。
きっと彼もそうだろう。
「行ってらっしゃいませ。」
頭を下げた。
彼が海辺の家並みにふと、視線を移した。
釣られて見た。
赤い高欄の付いた瀟洒な建物の二階に、華やかな影がある。
(ああ、彼女)
別れを惜しんでいるんだろう、と思った。
助左は手下を連れて、艀で海を渡っていく。
沖に浮かぶ船に乗り込んだ。
銅鑼が打ち鳴らされる中、ゆっくりと船が動き出す。
「行ってしもうた。」
傍らに立つ秀吉が呟いた。
「それにしても寧々は何処に行ってしまったんじゃろう。」
紅を呼ぶ声がした。
振り返ると、猿若が駆けてくる。小太郎が、その後に続く。
「ほ……早いのう。」
秀吉が感心した。
「姫君!」
猿若が叫んだ。
「わかりました!」
お二人とも、人買いにさらわれたのでございます、と息せき切って言う。
下京場之町の門番を勤めている者の女房が日頃、女をかどわかして売っているとの噂があり、所司代にて詮議したところ、これまで八十人もの女を堺まで連れて行って売っていたと白状した。科人はただちに斬首刑に処せられた。貿易港の堺で売ったということは、相手は南蛮商人であろうということになったのである。
「それで今、どちらに?」
「それが」
沖を指差した。
「先だって出港した船団の、どれかの船に積み込まれているようでございます!」
そんな馬鹿な……と言いかけて、はっとした。
今回、新規で船を出した店が多かったことに気づいたのだ。
(人身売買は、儲かる)
積荷に紛れ込ませている船があっても、おかしくない。
沖に浮かぶ助左の船を見た。
悠々と遠ざかっていく。
今回船出する、最後の一隻。
とっさに決断した。
懐から巾着を取り出した。
例のマント事件の後、財布には多めに金を入れるようにしている。
(正解だった)
「これを全部、あげる!」
高く掲げると、港にいる船乗りたちに向かって叫んだ。
「誰か、あたしを、あの船に連れて行って!」
「俺もやる!」
小太郎がすぐ紅の意図を察して、自分の巾着も取り出して掲げた。
「艀を出してくれ!」
「よし、わしが出そう!」
一人の船乗りが応えた。
「漕ぎ手になりたい奴は集まれ!」
紅は、同じく見送りに出ていた番頭の侘介に言った。
「すみません、後をお願いします。」
「かしこまりました。行ってらっしゃいませ。」
侘介は心得て、頭を下げた。
紅と小太郎、猿若は艀に乗り込んだ。
「わしも行こう。」
秀吉が言った。
紅は小太郎と顔を見合わせた。
「半年くらい帰れないかもしれません。」
紅は言った。
「お殿さまに何とおっしゃるおつもりです?」
「そのまま、御報告する。」
秀吉は言った。
「どうせ今は越前討伐の直後で、少しお休みを頂いておる。あの方は、日の本を平らげた後は、大陸までを掌中に収めるおつもりなのだ。わしは、その尖兵として偵察に参った、とお伝えせよ。」
兵たちを振り返って言った。
「それにそんなに大勢、艀に乗れません。」
「虎之助、市松、佐吉。その方ら、参れ。」
「ははっ!」
三人の少年が応えた。
朱夏は思わず高欄から身を乗り出した。
動きが妙だ。
蓬莱屋の二階からはよくわからないが。
艀に大勢の人が乗り込んで、すごい勢いで櫂を振るって漕ぎだした。
見る見るうちに沖に浮かぶ船に近づいていく。
船のほうも気づいたらしく、止まった。
艀は船に横付けした。
いく人か、船に収容される。
艀に残った人々が手を振る中、船はゆっくりと向きを変えて、外洋へと乗り出していく。
胸が騒いだ。
何か取り返しの付かないことが起こっているような気がして、船の姿が水平線の彼方に消えても、ずっと海を見つめていた。