第75話 夜の訪問者
風向きが変わった。
港は活況を呈している。
船団は、出港の準備に忙しい。
店も、その主人を送り出そうと慌しい。
菜屋はこの三ヶ月、二人の頭を頂いて、ぎくしゃくしてきた。
助左も紅も、互いの気持ちを殺して事務的に接してきた。
薄氷を踏むような日々も、ようやく終わりを告げる。
明日は出港という晩。
さすがに助左も、蓬莱屋から戻ってきた。
夕食は、紅が給仕をしてやった。
助左は押し黙ったまま、飯を食った。
明日は早いからもう寝る、と、部屋に引き上げようとする助左の背中に、
「おやすみなさいませ。」
手を突いた。
助左は振り返って、何か言いたそうな顔をしたが、思い返して、そのまま自分の部屋に行こうとした。
既に閉まっている店の戸を、ほとほとと叩いて訪いを乞う声がする。
「夜分恐れ入りますが、会所の急用でございます。開けて頂けませぬか。」
小女が応対すると、明日の出港のことで、どうしてもお知らせしなければならぬことが、と言う。
上がり框に立った紅が頷いたので、小女は、潜り戸を開けた。
その途端、小女を突き飛ばして、侍たちが続々と入ってきた。
次の瞬間、土間に飛び降りた紅が、先頭に立った侍に当て身を食らわしていた。
不意を突かれた侍が、真後ろに立つ者たちを巻き込んで、派手にひっくり返る。
紅は一回転して起き直ると、懐から既に藤四郎を取り出して、油断無く構えている。
助左も、片足が不自由な人間とは思えぬ素早さで、自由の利くほうの足を蹴って土間に飛び降りると、手にした杖で、二・三人、一気に倒した。
紅の傍らに立って、互いの背を守る。
侍たちは殺気立って、一斉に刀を抜いた。
「止めい。」
戸を潜って、一人の男が入ってきた。
「喧嘩しに来たんじゃないわ、たわけめ。刀を収めよ。」
小っちゃい。
真っ先に浮かんだ感想だった。
若い頃、栄養が足りなくて伸びなかったのだろう。
子供くらいの背丈。
皺々の真っ黒で細長い顔。
手も足も身体も、トンボか蜻蛉のように細い。
でも声は、港まで届くかと思えるほど大きくて、よく通る。
「そちが菜屋の主か。」
助左を見て驚いたようだった。
「話には聞いていたが……成程、異風じゃの。しかし今日、用があるのはそちではない。その方が、菜屋の女将か。」
紅のほうを向いて言った。
と、その顔が、ふにゃっと緩んだ。
「おお。こんなに近くで見たのは初めてじゃが……見れば見るほど美しい。」
顔を引き締めた。
「と、今はそれどころではないわい。そち、我が女房殿に会わなんだか。」
「ええと……どちらさまでしょう?」
「わしが、羽柴筑前じゃ。寧々の亭主よ。」
寧々はよく、お忍びで堺を訪れる。その度に必ず、菜屋に立ち寄る。でも、夫に会うのは初めてだ。
羽柴筑前守秀吉。
当時、長浜城主であったが、長篠の戦いや、越前一向一揆との戦いなどで多忙で、居城には不在がちであった。
「久々に帰ってみたら、女房殿がおらぬ。堺に出かけた、ちゅうが、待てど暮らせど戻って来ん。堺に行けば必ずこの店に寄るっちゅうのじゃが、そなた、知らぬか。」
「いえ。お方さまは暫くお見えになっていらっしゃいませぬが……。」
「はて……どうしたものか。」
秀吉は心底、困った様子だ。
「御心配でございましょう。夜も遅いので、今夜は、うちにお泊りください。私共も明日、心当たりを当たってみます。」
離れに宿所を用意した。
母屋に戻る際、紅が蔵の脇を通ると、気配を感じた。
立ち止まった。
「猿。居るのであろう。」
「へえ。」
暗闇から声がした。
「話は聞いたな。」
「へえ。」
「頼む。急いでくれ。」
「御意。」
気配が消えた。
家に入ろうとして、誰か立っているのに気が付いた。
「ふん。そういう訳かい。」
助左だった。
「追い出された、とか言いながら、お前、上杉の紐付きなんだな。」
「……。」
「いつか上杉に戻れる日を待っている。だから、商人には成りきれねえ。そういうことか。」
「お店のことは、ちゃんと致します。」
「でも、喜平二のことはあきらめきれねえ。」
助左は言った。
「だろ?」
むっとした。
彼のことは……あたしの心の一番奥深くに仕舞っている、大切なものなんだ。
「いくら御主人さまだからといって」
思わず口に出してしまった。
「あたしにとって、あの方は一番、大切な宝物なんです。踏みにじるような言い方は止めてください。」
何か又、ひどいことを言われる、きっと。
雇い主と使用人だからって、足蹴にされるばかりなのはたまらない。
(でも、我慢するんだ)
ここを追い出されたら行くところが無いって言っちゃったし。
生殺与奪の権利は坊ちゃまにある。
頭を垂れて、傷つけられるのを待った。
でも彼は何も言わなかった。
暗闇の中で、じっと黙って立っていた。
何だか、傷つけられたのは彼の方みたいだった。
「もう遅い。」
随分時間がたってから、やっと言った。
「家に入れ。戸締りはちゃんとしとけ。」