第70話 灯明台
夕方の波止場は、紅のお気に入りの場所だ。
中でも、石垣を組んだ長い防波堤の端に建つ、港を行き来する船の安全を夜、守る灯明堂の、階段のところが一番いい。
沈む夕日に照らされる、誰も居ない灯明堂の下で、翡翠を握り締めて、心の中に住んでいるひとに語りかける。
目を閉じて一心に祈り、『彼』に名残惜しく別れを告げて、静かに目を開けた。
目が合った。
女だ。
荷揚げされた木箱に腰を掛けて、手には細長い棒のような物を持っている。筒先からは、白い糸のように煙が棚引いている。
目が離せなかった。
棒から、ではない、女、からだ。
赤味が強い栗色の、量の多くて長い髪が、渦を巻いて波打っている。艶やかで滑らかな浅黒い肌、高い鼻梁、よく熟れた野苺のような瑞々しい唇。くっきりと大きな目は、鮮やかに燃える緑色に光っている。綸子地に摺箔で地紋を施し、刺繍と鹿の子絞りで波に群れ飛ぶ千鳥の模様を表した、凝った小袖を粋に着こなしている。すらりとした身体、でもその胸や腰は、『女』を誇示するように豊かだ。
思わず、
「素敵。」
と言ってしまった。
女にも聞こえたらしく、ものすごく意外そうな顔をした。
でも気を取り直して、
「こんばんは。」
にっこり笑った。
「煙くありませんか?」
「大丈夫です。」
紅は言った。
「それ、煙草、ですよね?」
煙草は元々、南アメリカ原産で、大航海時代の幕開けによって、全世界にあっという間に広まった。日本には上陸したばかりである。
「お吸いになります?」
「いえ、珍しいものだからつい、聞いてみたんです。」
(噂に違わない。ほんとに綺麗だ)
妓は思った。
(それも、透きとおるような清楚な美しさ)
撫でてみたくなるような真っ黒で長いさらさらした髪、触れてみたくなるような滑らかで肌理の細かい白い肌、見つめられたら胸が騒ぐ切れ長の黒眼がちな目、繊細な、日本人にしては高い鼻梁、男が思わず口づけしたくなりそうな、珊瑚色した可愛い唇。
抱きしめたら、その唇からどんな声が漏れるのだろう?
白練緯の地に、肩と裾に桧垣と亀甲繋ぎを配し、その間の部分に藤棚と雪輪を表している辻が花の、上品で洒落た小袖に包まれた、伸びやかで若々しい女体は、男なら誰でも魅了されるだろう。
彼女が持たない、ものを持っている、女。
きっぷのいい姐御で通ってはいるけれど。
こと『彼』に関しては、そうはいかない。
あたしは何も持っていない、持っているのは『彼』の愛情だけ。
美人でお金持ちで家柄も良いお姫さん、どうかあたしから、『彼』だけは、盗らないで。
「菜屋の女将さんですよね?」
「はい。」
「蓬莱屋の朱夏、と申します。」
「蓬莱屋……。」
はっとした。
坊ちゃまが居続けている、湯屋。
「若旦那さまにはいつもお世話になっております。」
如才なく頭を下げる朱夏に、慌てて紅も、いえ、こちらこそ、と、もごもご言いながら頭を下げた。
「宇佐美紅、と申します。」
自己紹介しながら思った。
このひとが坊ちゃまの敵娼なんだろうか。
「お似合いだわ。」
思わず口に出してしまい、朱夏は又、意外そうな顔をした。
なあんだ、と思った。
この女のほうは、『彼』のこと、なんとも思っちゃいないんだ。
(可哀相に)
男を、思った。
(あたしたちの容姿じゃね)
異人にしか見えない。
生まれてからこの方、どれだけ除け者にされてきたことか。
よそ者に対して厳しい日本の社会の片隅で、無力な混血の子として二人、肩寄せ合って助け合って暮らしてきた。
あたしたちの絆に、この女は入れない。
最初っから入る気も無い。
ちょっと気が楽になった。
ふと、娘が握り締めている物が気になった。
相手は気づいて、急いで胸に仕舞った。
ぴん、ときた。
「それが噂のお方の、ですね。」
悪戯っぽく笑った。
当てずっぽうだ。
鎌を掛けた、のである。
が、娘はあっさり引っかかった。
「ああ、何処へ行ってもバレちゃうんですよね。」
はにかみながら言った。
「いつも、喜平二さまのご無事をお祈りしているんです。」
菜屋の女将には『男』がいる。