第5話 越後
怒られた。
いや、ぽつり、ぽつりと静かな声で諭された、だけに周りからは見えるかもしれない、が。
彼には合間の沈黙のほうが怖かった。
自分は、どっちかというとお屋形さまに気性が似ているのかもしれない、と思う。だから、自分とは正反対の在り方の父の言葉が響くのかもしれない。
お屋形さまは気性が激しく、火のように神がかった戦をなさる。
父、長尾政景は正反対に、落ち着いた人柄のとおり、一つ一つ着実に手を打って、じっくりと勝ちを収める。
お屋形さまが戦にお出になるときは、留守を任されることが多い。
彼の家、上田長尾家は、越後国上田荘坂戸城に居を構える。魚野川を挟んで三国街道を見下ろす山城である。越後府中と関東平野を結ぶ陸上交通、魚野川を利用する河川交通の要として、重要な場所でもある。
彼の祖父は、お屋形さまの父の弟である。
お屋形さまが家督を継ぐ際、病弱な長男と、戦上手な四男のお屋形さまの間で家督争いがあり、政景は長男側に付いた。当時の守護である上杉定実が仲介の労をとり、結局長男はお屋形さまに跡目を譲ったが、お屋形さまと上田長尾家の間にはわだかまりが残った。そのしこりの解消のため、お屋形さまの姉が、政景の妻となった。これが彼の母である。こうして彼の家は、幾重にもお屋形さまと結ばれている。
お屋形さまは仏門に入られている。お世継ぎはいない。
彼の家は親類筆頭である。そして長男が病弱である。
だから、
「喜平二。」
次男である彼が、
「もっと考えて行動することが必要なのが、まだわからんか。」
ぐうの音も出なかった。
その後、お客人と対面して挨拶した。
痩せて色が白く、品のある、どこか鶴を思わせる老人とその孫娘。
想像通り、彼女だった。
でも今日の彼女は、昨日の彼女ではなかった。
「宇佐美紅でございます。」
固い口調で言って、礼儀正しく頭を下げた。
顔を洗って、髪を梳かして、清潔な着物を着て、美しいけれど、まるでお人形さんのようだった。昨日の野生児だけど生き生きした、魅力的な少女は何処かへ行ってしまった。
なんか、がっかりした。
やっぱりこの子も、何処にでもいる普通の女の子だったんだ。
こちらも礼儀正しく挨拶した。
よそよそしく冷たい雰囲気のまま、対面は終わった。
去り際、紅が、あの小さな鈴を落とした。
喜平二は席を立って拾ってやった。
手渡す際、彼女が、つと彼に身を寄せて囁いた。
「イ・ジ・ワ・ル。」
はっとして彼女の顔を見たが、もう何事も無かったような顔をして、澄まして部屋を出て行ってしまった。
父に尋ねた。
「あの方は、どういうお方なのですか?」
「宇佐美駿河守殿は、琵琶島の城主だ。」
琵琶島城は、当時有数の港であった柏崎の近くにある。交通の要所で物流の拠点、軍事的に重要な場所でもあった。
宇佐美一族は鎌倉幕府の御家人で、伊豆国宇佐美荘に所領があった。上杉氏が越後守護を任ぜられたときに臣として越後にやってきて、琵琶島に城を築いた。以後この一族は、一貫して越後上杉家の忠実な家臣であり続ける。
お屋形さまの父、つまり喜平二の祖父の兄である長尾為景は、当時の守護で気が荒く失政の多かった上杉房能に、守護代{家老}としての立場上、換言を度々したところ、却って憎まれ、危うく殺されそうになった。為景は反撃して房能を討ち取り、上杉の一族である上条家から定実を守護として迎えた。
この時代、主殺しは珍しいものではない。
為景は暴虐な守護に対する豪族の反感を楯に、多額の献金によって、要領よく幕府の正式の承認を得た。
ところがこれに反抗したのが、宇佐美駿河守定行である。学者でありながら節を守る骨のある人物で、主殺しの下にはつかぬと豪族らに呼びかけ、殺された房能の兄、関東管領上杉顕定に訴えた。
東京を中心に行政が行われている今日では想像しにくいが、当時は交通が不便だったこともあって、縦に長い日本を、飛騨山脈とその支脈付近を境に、東と西に分割して統治していた。つまり西が室町幕府、東が鎌倉公方の領域になる。
関東管領は鎌倉公方の執事という立場になる。だが室町幕府と対立した鎌倉公方{後に下総国古河に移り古河公方と名を変えることになる}は早々に力を失いお飾りと化し、実権は関東管領が握っていた。
関東管領を出す上杉家は宅間、犬懸、山内、扇谷の四家に分かれていたが、このうち宅間と犬懸の二家は早くから衰え、山内家と扇谷家の二つの系統が有力だった。扇谷家の家宰として有名なのが、かの太田道灌である。だが天文十五年の川越夜戦で、扇谷家のほうは滅亡してしまう。
幕府も考えていて、鎌倉公方が権力を持ちすぎないよう、関東管領は鎌倉公方ではなく、室町幕府が任命することとしたのだが、幕府と関東管領は仲が悪い。
為景はそこに目を付け、関東管領上杉家の分国である越後の守護を、幕府に承認させたのである。
弟を殺され、越後を奪われた形の関東管領は当然、面白くない。早速兵を率い、領国を奪い返し反逆者を討ち取らんと自ら越後に乗り込んできた。
為景は絶体絶命の危機に陥ったが、顕定と対決し、これを倒して勝利した。
更に、定実を傀儡として国を欲しいままにする為景に腹をたてて兵を挙げた定実の弟、上条定憲をも討ってしまった。
いずれも宇佐美定行が裏で糸を引いており、散々苦しめられた挙句の辛勝で、流石の梟雄もほとほと参ってしまった。
最後は、自分が立てた新しい関東管領・上杉憲房に賂をして間に入ってもらい、定行と和議を結んだ。
その後、定行は、為景に疎んじられて放浪していた四男の喜平二景虎を引き取り、彼を教え導いて、軍神と呼ばれるまでの武将に育て上げた。
「それが、今の上杉家の当主であるお屋形さまよ。」
政景が言った。
上杉定実のあと、守護である越後上杉家は断絶した。景虎は守護代行として越後を統治していたが、そこへ北条氏に追われた関東管領・山内・上杉憲政が彼を頼って逃げてきた。景虎は憲政の跡継ぎになり、姓を長尾から上杉に改めた。
このひとが、世にいう上杉謙信である。
「宇佐美殿は、係累が次々に若死になさってな。ご当人も年をとって引退なさった。今、身寄りといえばあの娘一人だろう。」
「それで、我が家とは。」
「我が家も、越後における関東管領・山内上杉家の被官だ。」
豪族の中でも、上杉家の被官であるという意識の強い家と、土着の国人意識の強い家に分かれている。
上田長尾は、山一つ越えれば関東という地理的条件があって、上野{今の群馬県}の国人と関係が深いし、宇佐美は、もともと上杉の被官として伊豆からやってきた一族という歴史的背景がある。共に、越後の豪族の中でも特に、上杉家を敬うこと、厚い。
(お屋形さまを育て上げた師……)
「父上、お願いがあります。」
喜平二は手をついた。