第65話 北の便り
紅は暫くして眼を覚ました。
襖が僅かに開いて、
「お目覚めですか?」
鞠の声がする。
「ああ……坊ちゃまは?」
「お出かけのようです。」
「そう……。」
ずっと待っていた人と、喧嘩になってしまった。
(いけない。あたしは使用人なのに)
確かに、彼の言うとおり、分を超えてしまった。
彼が帰ってきたら謝ろう。
これからは彼に従って、彼に全て任せて、あたしは使用人に徹することにしよう。
「お見舞いの方が見えています。」
「えっ?誰?そんな大袈裟な。もう起きるわよ。」
「よくご存知の方です。屏風越しでも結構ですから。」
鞠らしくもなく強引だ。
「ご案内します。お寝みのままで大丈夫です。」
鞠は程なく誰かを案内してきた。
屏風の陰にその者を座らせると、自分は去っていった。
「このたびはとんだことで。これはささやかですが、お見舞いの品でございます。」
客はぼそぼそと言うと、扇の上に載せて、そろそろと出した。
白い星が散りばめられた薄紫の美濃紙の包み。
見るなり、紅は言った。
「そんな所に隠れてないで、こっちへ来なさい、猿。」
「へえ。」
猿若が、恐れ入ったように屏風の陰から姿を現した。
紅は少女から娘になったのに、この男は、初めて会ったときから、ちっとも年を取らない。
「お加減、如何でございますか。」
「止めてよ。たいしたことないわ、そんなに騒がないで。」
紅は閉口して言った。
「おやか……主には言わないで。」
「へえ。」
「そういえば、あなたも久しぶりね。」
「へえ。ご商売も順調そうでしたし。」
そうだった。
この男は、あたしが危機に陥らないと現れない。
はっとした。
こういう稼業の者って、何処まで相手を調べることが出来るんだろう?
紅だって、もう一人前の女だ、大人にはオトナの生活がある、例えば、彼女だったら、ノ……。
(彼とのこと、何処まで知っているんだろう?)
信長は彼女にとっては大事な男だが、同時に上杉にとっても、無視出来ない相手ではないか。
(彼とは、男と女の関係は結んでいないけど)
愛しいと言われ、口づけも交わしてしまった。
信長の思いがけず濃厚な口づけを思い出して、かっと赤くなってしまった。
「あ、あの、あたしのこと、全部、主に報告しちゃっている?」
「へえ。」
さらっと言った。
「綿のご商売も順調で、お店も上手くいっていると申し上げております。」
人の良さそうな笑顔。
知ってるんだろうけど。
(言わないでいてくれてる)
確信、した。
「主はお元気?」
「へえ。最近、昔受けた矢傷が元で、片足を引きずるようにおなりになりました。杖をついておられますが、お元気です。」
「まあ。それは大変。」
主は、戦でも真っ先駆けていくタイプだ。
「大丈夫かしら。」
「なあに、杖は仕込みになっておりましてな。」
猿若は言った。
「それを上手に振っておられます。」
助左衛門を思い出した。
もう一つ、聞きたい。
「あ、あの……。」
猿若は、紅の言いたいことを察して、言った。
「お元気です。お正月には主から官位を譲られました。弾正少弼にお成りです。改名もなさいました。以前は『顕景』とお名乗りでしたが、『景勝』、と。」
「『顕』は山内上杉家の字だった。『景』を上に持っていかれて、格が上がられたのね。」
「御家来衆もお元気ですよ。」
猿若は付け加えた。
「あの、樋口与六と申す者です。」
「大きくなったでしょうね。」
可愛かったな、と思い出して微笑んだ。
「喜平二さまの懐刀、と言われております。」
「そう。心強いわ。」
彼の回りに、彼を助ける頼もしい者たちが大勢居て欲しい。
大人になり、家を束ねるようになって、つくづく思うようになった。
「御養子は他にも二人おられます。お一方は、上条上杉家をお継ぎになられました。」
上条上杉家は、守護の越後上杉家に決まって養子を出す家である。殆ど同じ家と見ていい。
「もうお一方は、小田原の北条家からおいでになった方です。『景虎』という主の幼名を貰い、喜平二さまのお姉上を娶られ、北条との和の要となると期待されたのですが、あっさり同盟が崩れましてな。それ以来、棚上げされているお身の上です。」
「上杉は毎年、越山しているから」
紅は言った。
「周りは親兄弟と戦う者ばかり、酒宴といっても北条か武田と戦ったという武辺の話題ばかり、さぞかし居づらいでしょうね。お気の毒だわ。」
「主は『北条は憎いが、そなたはもう上杉の家の者だ』とおっしゃって、分け隔てなく接していらっしゃいます。」
「そういうお方よね。」
尊敬の念を込めて言った。
やっぱりあたしは上杉の家中だ、と思った。
信長のことは愛している。でも、ついて行かなくて良かった。
「ところで、手前、越後の苧を扱っておりまして」
猿若が言った。
「このたび、この家に出入りさせていただくことになりました。そこで、ご挨拶を、と思いまして。」
「えっ?」
武衛陣に居たときだって、彼女の生活に入り込んでは来なかったのに。
「どうしたの?何、心配しているの?」
思わず聞いた。
「いえ。」
何も考えていなさそうに笑った。
「このお店は伸び盛りでございますから、儲かるんじゃないかと思っただけでございますよ。又、伺います。」