第64話 蘇鉄
紅は傷の手当をしてもらい、自分の部屋で暫く休んだ。
幸い、一部屋焼いたくらいで済んだ。蔵は無傷だ。
若、と呼ばれる男が連れてきた一団が、火を消しとめ、逃げた曲者を捕まえてくれた。
身なりを整え、奥の座敷に向かった。
男は一人、寝転んで庭を眺めていた。
紅を見ると、
「よォ。」
起き直った。
「あれ、まだ、あンだな。」
庭を指差した。
「蘇鉄、ですね。」
「随分、大きくなったな。」
懐かしそうに言った。
「あれ、俺と同い年なんだ。」
そう言えば霜台が、誰が植えたか気にしていた。
このひとなら知っているかもしれない。
「どなたがお植えになったんですか?」
「俺の親父だよ。」
この家も昔は栄えていたという。
海外に船を出すこともあったのかもしれない。
「南国の珍しい木だそうですね。お父上は何処かから持って来られたんですか?」
「木と一緒に、ここに根を下ろすつもりで植えたんだそうだ。でも結局、他所で死んじまった。」
暫く黙って蘇鉄を見つめていたが、ぽつりと言った。
「俺、帰ってきたんだな。」
胸を打たれた。
「坊ちゃま、おかえりなさいませ。」
思わず言ってしまった。
ちょっと驚いたように彼女を見たが、にこりと笑った。
「ああ。ただいま。」
風体からして、彼の父は異国の人なんだろうか。
でも、初対面で、あんまり色々詮索するのは失礼かもしれない。
ましてや彼は、この家の主だ。
居住まいを正した。
「昨夜は有難うございました。」
痛々しく包帯が巻かれた頭を下げると、ずきんずきんと痛む。苦痛に顔を顰めた。
「まだ痛むだろ。」
「大丈夫です。」
ほんとうは、座っているのも、やっとだ。でも、仕事を済ませてしまわなければ。
「お待ち致しておりました。ずっと。」
紅は言った。
「宇佐美紅と申します。」
「俺ァ、納屋助左衛門だ。宜しくな。」
「私は磯路さまから留守を頼まれた者です。お孫さんが現れるまでと、店を預かっておりました。生きておいでなら、どれ程喜ばれたことでしょう。」
「フン。」
目に悪意が踊った。
「婆ァ、くたばったんだってな、とうとう。」
それまで優しく気さくな態度だった彼の豹変ぶりに驚いたが、諍いがあったと聞いていたから、それでだろう、と思った。
「行き違いがあったことは伺っております。でも、とても後悔していらっしゃいました。ずっとあなた様の行方を捜しておいでだったのです。」
「はっ。」
せせら笑った。
「もっと早く言って欲しかったな。親が死ぬ前によ。」
「お亡くなりになったことは伺っておりました。」
「ああ。婆ァのせいでよ。罰が当たればよかったのにな。」
頭が痛い。
「いくら何でも言い過ぎでしょう。」
つい、咎めるような言い方をしてしまった。
「あァ?」
彼の目が険悪になった。
「何だよ、てめェ、何さまだよ。留守の間にひとンちに入り込んで、主人面かよ。この家を乗っ取る気か。」
もうこうなったら売り言葉に買い言葉だ。
「磯路さまは、あなたが見つからないから、すっかりさびれてしまった店をたたむおつもりでした。ここまで店を建て直したのは、この私です。」
つい、言わなくてもいいことまで言ってしまったのは、早くこのやり取りをお終いにしたかったからに相違なかった。
目の前が暗くなって、脂汗が滴り落ちた。
「生意気な女だな。不愉快だ!」
彼が立ち上がって足音荒く出て行く物音を聞きながら、崩れるように突っ伏した。
と、足音がバタバタと戻ってきて、身体を支えてくれるのを感じながら、気を失った。
助左は紅を自室に運んで寝かせてやると、彼女とのやりとりを番頭の侘介に話して聞かせた。
「何でぇ、あいつ。どンだけ気が強いんだ。」
助左が零すと、
「奥さまとお嬢さまのこと、何もご存知無いんですよ。私からそれとなくお話しておきましょうか?」
「いいよ。他人に、べらべらしゃべることじゃねえや。俺も、もう言わねえ。」
「女将さんはずっとお待ちだったんですよ、坊ちゃまを。」
侘介は言った。
「おっしゃったことは全部、本当のことです。昔からの使用人が、私の他はいないでしょ?引退した吾兵衛さんやお亀さん以外は皆、やめていったんですよ、この店には先が無いからって。道端で倒れているところを奥さまに拾われたのを恩に着ていらっしゃって、歯を食いしばって店を続けていらしたのです。お孫さんにどうしても店を渡さなけりゃ、ってね。自分の手柄だなんて、今まで一言もおっしゃいませんでした。坊ちゃまがあんまり煽るから、つい、言っちまったんだと思いますよ。」
「ふん、おヒメさまみてェに澄まして、お高く留まりやがってよ。何さまのおつもりだい。」
「みたいじゃなくて、本物のお姫さまですよ。」
番頭は言った。
「昔は、お城で暮らしていらしたそうです。有為転変あって、公方さまにお仕えし、その後、うちにいらしたんです。詳しいことは存じませんがね。それにしても、ようご無事でお戻りになりました。ふいと居られなくなったときは、随分、お探ししたんでございますよ。」
助左は、ふっと笑った。
「ちっとばかし、事情があってな。播磨の室津の港から、流れ流れて博多にたどりついて、拾ってくださった旦那に随分よくして頂いた。その方が亡くなったんで、形見分けにあの船と乗組員を頂戴したんだが……戻ってきた意味、無かったな。あーあ、自分ンちなのに、何だか居づらいや。」
ふと耳をそばだてた。
法螺貝が鳴っている。
「風呂屋が始まるようですな。」
番頭が言った。
助左は土間に下りた。
「坊ちゃま、どちらへ。」
侘介が慌てて聞いた。
「『蓬莱屋』ってぇ湯屋に居る。用があったら、使いを寄越してくンな。捕まえた奴らは空いてる蔵に閉じ込めてある。あの女の具合が良くなったら、詮議しよう。あと、俺が運んできた荷物のことについて話があるって伝えといてくれ。あ、あンまし無理さすなよ。頭は大事だからな。」
風を巻いて外に出て行った。
番頭が止める間も無かった。