第63話 付け火
火を見た。
前久の背中が、前を走る。
叔母上、と呼んでいる。
目の前に柱が崩れてきた。
進めない。
もがいても、もがいても。
そこで目が覚めた。
又、夢を見た、と額の汗を拭った。
よくこの場面を思い出す、夢に見る、だって、臭いがひどくて、ひどくて……?
はっと我に返った。
違う。
ほんとに目が覚めた。
がばっと飛び起きた。
同時に鞠が飛び込んできた。
「か、火事ですっ!」
咄嗟に翡翠と藤四郎を懐に納め、襦袢の上に素早く小袖を羽織って飛び出した。
今度は母屋が燃えている。
小太郎が店の者を指揮して、懸命に消火作業を行っている。が、炎の勢いが強い。
(これ以上、燃え広がると、建物を壊さなくてはならないかもしれない)
夜空には月も無い、ただ、炎が辺りを照らしている。
黒煙が渦を巻いて押し寄せてきた。
「ここは危ない、鞠さまは下働きの女たちを連れて避難してください。」
紅は言うと、井戸端に向かった。水汲みを手伝おうとしたのである。
途中、蔵の辺りで、何かが動いたような気がした。
相手に気づかれないよう、物影に隠れながら近づいていった。
数人の男たちが蠢いている。
(賊、だ)
こいつらが放火犯だ。
鉄砲は大きすぎて、懐に入らないのが難点だ。
胸元を探った。
生憎、獲物は藤四郎しか無い。
ごめんね、又、使っちゃうかも。
宝刀に、あらかじめ謝った。
手ごろな石をいくつも拾って懐に忍ばせた。
物陰から狙いをつけて、矢継ぎ早に投げた。
過たず当たる。
悲鳴を上げて逃げまどう相手に、
(武士ではない)
弱い、とつい油断した。
いきなり後ろから、棒のようなもので頭を殴られて、昏倒した。
生ぬるい液体が、額を伝って滴り落ちる。
気が遠くなった。
相手は又、棒を振り上げた。
身体が思うように動かない。
腕を挙げて、次の衝撃から頭を庇うのが精一杯だ。
思わず目を瞑ってしまった。
何も起きない。
恐る恐る目を開けた。
誰かの背中が見えた。
炎に照らし出されて光っている、腰まで届く金色の波がゆるやかに流れている。
(女?)
にしては、背が高い、と思った。
裾長の白の着流しを着ている。
片手に杖を握り、その杖が生き物のように伸び縮みして、襲い掛かる相手を軽く突くと、相手は、もんどりうって倒れた。
次々に襲い掛かってくる者たちを、杖一本で面白いように倒していく。
曲者たちは、敵わぬ、とみて逃げ出した。
逃げていく方向へ、
「そっちへ行った。捕まえとけ。」
よく通る、若い男の声だった。
「へい。」
複数の声が応えた。
杖を握った男は、ゆっくりとこちらへ向き直った。
そのとき、朝日が射した。
最初の陽光が、男の全身を照らし出す。
波、と見えたのは、金色に輝く豊かな髪だった。さらさらと初夏の風に靡いている。
白い肌、きりりとした眉、高い鼻梁、堅く引き結んだ口、そして何よりその、大きな目。
見たことも無い、色だ。
碧とも青ともつかない。
異人のようだが。
「誰?どうしてここにいるの?」
ぼんやりした頭で口をついて出た言葉に、彼は眉を顰めた。
「ここァ、俺ンちだ。てめェこそ、誰だ?」
「坊ちゃま!」
侘介だった。
急を聞いて駆けつけてきたらしい。
「お、久しいな。」
男は言った。
「誰だ、コイツぁ。」
「お、女将さん!」
「えーっ、ってことは、『若』の嫁さんですかい?」
誰かが素っ頓狂な声を上げた。
「すっげえ、ちゃーんと用意して待ってたんだ!」
焦点が定まらず、気絶しかけている紅の顔を覗き込んで、しげしげ見る。
「しかも、すっげえ、べっぴんさんだ!」
「え?」
『坊ちゃま』も顔を近づけてきた。
「……。」
「坊ちゃま、何、ぼんやりしてんですか!」
侘介が言った。
「怪我の手当をしないと!」
「……そうだな。」
「へへっ、若、あっしが……。」
「馬鹿、触んな。」
彼は手下を押しのけると、ひょいと紅を肩に担いだ。
杖を突きながら歩き始めた。
微妙にがくん、がくん、と揺れる。
左足を引きずっているようだが、力も強く、杖を器用に操って、殆ど感じさせない。
幅広い肩に頬を付けた。
目を閉じた。
ほっとして、気が遠くなった。
火は消し止められたらしく、黒煙がぶすぶすと燻っている。
男は紅を、店の上がり框にそっと下ろした。
「紅さまっ!」
駆け寄った鞠は、紅の頭から流れる血を見ると、気が遠くなってしまったらしく、ぺたんと座り込んでしまった。
そこへ、
「だから、すっげえ、美人なんでさ!」
「お前の『すっげえ』は聞き飽きたよ。」
声高に笑いながら入ってきた一団がある。
先頭に立つのは、天井に頭がつかえるかと思われるような背の高い黒人だった。
その姿を見て、鞠は、きゅっ、と言って本当に気絶してしまった。
一団は紅の姿を見た途端、同時に、
「すっげえ。」
と言って絶句した。