第62話 女の一生
きっかけは小火だった。
小僧が、蔵の脇の物置が燻っているのを見つけたのだ。
発見が早かったので、すぐ消し止められたが、普段火の気の無いところなのに何故、と店の者は誰もが不思議に思った。
見回りを強化したが、事件は続いた。
夜回りの老爺が殴られて、倒れているのが発見されたのだ。
幸い、命に別状は無かった。
何も盗られていないのも不思議だった。
それから見回りは二人に増やされた。
「いったい何なんでしょう。」
紅が言うと、
「今は初夏で、たくさんの船が入港している。港に降り立って気持ちが大きくなり、豪遊して、渡された賃金を使い果たしてしまった他所者が、鬱憤晴らしに悪さをしているのかもしれない。」
鞠と結婚して、貫禄のついた小太郎が言った。
磯路の孫も現れないし、霜台のお許しも出たことだから、鞠、もしくは鞠と小太郎の間に生まれるであろう子に、菜屋を譲る日も近いことだろう、と紅は思っている。
そうなったら、自分は使用人として一段下に下りて、引き続き菜屋の仕事をするつもりだった。
紅の美貌は、堺は元より都、及びその近辺にまで鳴り響いている。
縁談は降るようにあったが、全ての話を丁重に断った。
誰とも結婚するつもりは無かった。
喜平二と再会することもあきらめていたし、信長とは愛情で結ばれて、互いの時間の許す限り度々会ってはいたものの、男と女としての関係は無かった。
誰かの女になるつもりは無かった。
ただ、一人でいたいだけだった。
仕事をしていれば幸せだった。
商人に、望んでなったわけではなかったけれど、今の彼女には店が全てだった。
老舗ではあるけれど没落していた店を、彼女が一から立て直し、手塩に掛けて育てたのだ。
人は、女の幸せは結婚にあると言うけれど、必ずしもそうじゃない、と思った。
そんなとき決まって思い出すのは、小侍従の姿だった。
武衛陣を一人で切り回していた小侍従。
義輝への愛がそうさせていたことも事実だが、彼女は武衛陣自体を愛していたのだ、と今になってようやくわかった。
無残な最期を遂げた彼女、でも、その人生は幸せだったのだ。
(小侍従さまのように生きたい)
ずっと一人だった。
きっと、これからもずっと。
淋しくは無かった。
それが自分の人生だと思っていたから。
一人の男が、彼女の前に現れるまでは。