第61話 月見酒
式が終わって紅は、奥の座敷に酒を運んでいった。
久秀は縁に座って、月を眺めてぼんやりしていた。
紅が部屋に入っていくと、庭を指差して言った。
「あんなところに蘇鉄がある。」
「ソテツ?」
「木、じゃよ。」
「ああ、あの、末枯れた団扇みたいな葉っぱの。」
老舗だけあって、小洒落た泉水のある中庭がある。松だのモッコクだのが品よく植わっており、春は桜、秋には紅葉と小さいながら四季を感じさせる庭なのだが、その隅にちょっと異質な空間がある。
そこに植わっている、ざらざらした茶色い小山みたいな幹から、ぎざぎざの深緑の葉っぱが何本も突き出ている木のことか。
久秀は眉を顰めた。
「そちはほんとに、身も蓋もない言い方をするの。」
「だって、忙しくって、庭なんか眺めている暇、無いんですもの。」
「あれは、わしが居た頃は無かったもんじゃ。いったい誰が植えたんじゃろ。南国の植物で、この辺りでは珍しいもんじゃ。」
「妙国寺さんに、これより少し大きいのがありますよ。」
紅が言った。
「あんまり海外雄飛っていうかんじの家でもないのに、不思議といえば不思議ですよね。」
そういえば、と思い出して言った。
「弥八郎は?今回はお連れにならなかったのですか?」
「あれは三河に帰した。」
久秀は盃を傾けた。
「あたら有能な人材を、鄙に埋もれさせておく手は無い。いいんじゃ、もう。今のわしには勿体無い男じゃ。」
「……。」
此の度の祝宴にしても、と紅は思った。
こういう苦境に立っているときこそ、鞠は大事な手駒だろうに、惜しげもなく手放した。
後から思えば、もうこのとき既に久秀は、変転極まりない自身の人生に倦んでいたのかもしれない。
「そなたが接待してくれるのも、久しぶりじゃの。」
武衛陣を懐かしく思い出した。
「あの頃の暮らしが嘘のようです。もう、百年も年を取ってしまったような気がします。」
久秀は苦笑した。
「まだ若いのに何を言っとる。そりゃ、わしの台詞じゃわい。」
「綿の栽培は順調です。」
紅は言った。
「霜台さまのおかげです。」
「こちらこそ、礼を言おうと思って来たのじゃ。」
久秀は形を改めた。
「上総介{信長}にとりなしてくれたのは、そなたじゃそうな。礼を言う。」
頭を下げた。
「そんな、私なんぞ。」
紅は慌てて言った。
「全部、あの方お一人でお取り決めになっていらっしゃるのです。私が何か申し上げて取り上げてくださったように見えるのは、ただの偶然です。」
「菜屋も、織田家御用達と見なされて繁盛しておるようじゃが」
久秀は声を潜めた。
「何処ぞの家と深い関係があると、あんまり世間にわからん方がええ。その家が滅びたとき、商売にまで逆風が吹く。」
まさか。
「又、何かたくらんでるんですか?」
紅はため息をついた。
「あんまり鞠さまを心配させないで下さい。」
「一般論じゃよ。」
久秀は澄まして言った。
「武田が甲斐に戻り、朝倉浅井が滅びても、石山本願寺を始めとする勢力が残っている。まだまだひと波乱あるぞ。」
実際この後、信長は石山本願寺との戦に突入し、苦しめられることになるのだが、その前に菜屋は別の戦に巻き込まれることになる。