第58話 忍び草
「え……。」
「俺は戦ばかりしている。なかなか会うことも出来ない。俺の城に来ればもっと会える。共に鷹狩りに行って、夜は俺が舞い、そなたが笛で合わせる。夜通し語り合ったり、それから……」
いつの間にか彼は彼女の腰に手を回して、肩を抱いていた。
口づけをした。
思いもかけず優しく穏やかな口づけで、ゆっくりと彼女の緊張をほぐした。
女の帯を緩めると、襟をくつろげた。
「殿……。」
頭が真っ白になって、なすがままだった紅も、さすがに気づいて、彼の手を掴んで止めた。
「好きだ。」
信長は言った。
「俺に心を預けろ。俺もそなたに、俺の心を預ける。」
膝を入れ、裾を割って、女の体を開こうとした。
「でも、私は山内上杉の家臣です。」
彼は手を止めた。
「俺の家臣になれ。そなたを捨てた家ではないか。」
「いいえ。」
悲しそうに言った。
「上杉との和が壊れたら、私たちは敵同士になってしまいます。私は……主を裏切ることは出来ません。」
信長はいらいらして言った。
「男と女の間柄は、主従関係とは違うんだ。いいからこのまま、俺のものになれ。そうしたらそなたも、上杉なんぞより俺の方がよくなる。男と女の契りを結んだら、きっと俺のことを誰よりも……。」
彼女と目が合った。
唇を噛んだ。
「そうだ。」
ぽつんと言った。
「そなたが主を裏切るような女だったら、最初から好きになったりはしない。そなたには、何があっても主を裏切って欲しくない。」
女を抱きしめて髪を撫でた。
「でも上杉ではなく、この俺に、忠誠を誓って欲しかった。」
紅は自分から信長に口づけをした。
彼は目を閉じた。
ゆっくりと互いの感触を味わった。
「好きです。」
紅は言った。
「上杉を除けば、殿が一番好き。」
「俺は一番じゃなきゃ嫌なんだ。」
駄々をこねた。
紅は微笑した。
「可愛い『敵』め。」
信長も微笑んだ。
「討ち取ってやる。」
又、とろけるような口づけを交わした。
それから長い間抱き合って、互いに癒された。
日が傾く頃になって、ようやく信長は紅を離した。
「上杉との和が破れたら、そなたに頼むことは無くなるかもしれない。」
紅に言った。
「でもそれは即、織田家に出入り禁止ということにはならない。家中の者と自由に取引してよい。そなたの身の安全は保障する、これだけは約束しよう。」
「つまり、もうお会い出来なくなる、ということですか?」
「話の前半しか聞いていないな。」
信長は言った。
「俺は忙しいんだ。そうそう会ってもいられない。だから俺の手の内に納めておきたかったのに。」
愛おしそうに又、口づけした。
「俺は子供が好きなんだ。子供は無邪気だからな。そなたに俺の子を産ませたかった。きっと可愛い子が生まれただろうに。でも仕方無い。」
紅への想いは、もうすっぱり割り切ったようだった。
「そんな顔をするな。」
乱暴に頭を撫でた。
「側室になったって、四六時中俺と一緒にはいられない。正室の指揮下に入って窮屈な生活を我慢し、ごく稀に俺の夜のひとときを独占して、子を授かる日を待つ暮らしだ。これでよかったのかもしれない。」
笑った。
「たまには顔を見せろ。空いていれば会ってやる。」
実際、その後も紅が訪ねて行くと、彼は予定を変更してでも気軽に会ってくれた。
良い鷹や馬が手に入ったから見に来い、相撲を見物するから参加せよなどと、向こうから誘ってくることさえあった。行くと、彼は、彼女を自分の側に侍らせて放さないので、皆の注目の的となった。
外聞は気にならなかった。
何故なら彼との交流は刺激的で、紅に様々なことに対して目を開かせるものだったから。
男と女の関係では無かったが、互いに深い愛情を感じていたのは確かだった。
信長の予言は当たった。
上杉と織田の和は結局、四年ばかりしか持たなかった。
その後、謙信は亡くなり、景勝が跡を継ぐ。
その頃には、織田の力が上杉の勢力を上回っていた。
武田を屠って次は上杉も掌中に、というところで、信長は、踵を返して安土に戻ってしまった。
彼女が越後に戻ったことを知っていたのかどうかはわからない。
彼のことだ、どんなに女を愛していたからといって、敵を滅ぼすのを止めるつもりは無かったろう、例え彼女が主と運命を共にすることがわかっていたとしても。
でも、女が愛する男と居られる時間を、少しでも長くしてやりたかったのかもしれない。
追撃を進言した家臣に、
「女というのは哀れな生き物だな。」
と何の脈絡も無く言ったので、周囲は怪訝に思った、と、側に居た者が記憶に留めていたという。
菜屋の方でも、織田家に出入りを許されたことで、商売において思いがけない効果があった。
磯路が死んだことで離れていった客が、徐々に戻ってきたのである。
千宗易をも巻き込んだ港でのパフォーマンスが話題になったことによって、『織田さまに出入りを許された』店、という信用が出来たようだった。
宗易が回してくれた干鰯は上質な物で、元・番頭の吾兵衛の村から届けられる綿は上等になり、段々増えていった。
秋になると、店の者総出で吾兵衛の村に行って、綿摘みの手伝いをした。
枯れた綿のガクは硬く鋭く尖って棘のようで、畑仕事に慣れない人々の手を傷つけた。でも、このコロコロした玉から、皆が憧れる、時代の先端を行く物が生まれる。自分たちが摘んだ綿が世の中を変えていくのだ、と人々は励ましあった。
鱗雲が流れる秋の青空の下、河原敷き一面に広がった真っ白な綿畑に立つと、誰しも心が広がるのを覚えた。
久秀が言ったとおり、種は近郊の村々にもどんどん広がって、綿の栽培は、摂津における一大産業になっていった。
その取引を、紅は一手に仕切った。
菜屋はいつの間にか、堺でも上位に位置する店に、のし上がりつつあった。