第56話 乱取
紅は暇乞いをしようとした。
「待て。ついて来い。」
馬を用意するよう、近習に言いつけた。
「何処へ。」
「鷹を飛ばす。」
信長の趣味の一つに、鷹狩りがある。
ここ京では、東山が主な狩場である。
相変わらず、少し郊外に出ると広々とした野が続く、京である。
ルイス・フロイスは『日本史』で
この市街は平地にあるので、そこから出かけると万物は甚だ美しく、又、快く、新鮮な緑の野とか見るべきものが多いのである。
と述べ、又、ジョアン・ロドリゴも『日本教会史』で
この都市から外へ出たところは、どの方面に行っても、日本中にある平野の中で最も美しく、爽やかな気持ちよさが味わえる。都市の周辺には、所々に森や林があって、そこは慰安に適しており、毎日、酒宴を設けて楽しむ市民の集いが行われ、一種の幕を張り巡らして其々の宴席を囲む。
と表現している。
普段、乾いた砂洲の上にぎっしりと家が軒を連ねている堺に住んでいる身である。都の郊外に広がる田園風景、茅葺屋根の農家の庭先の柿の、枝という枝に鈴なりに実を生らせている姿を見ていると、紅は何故かしら懐かしい思いに囚われた。
信長と紅が路を行くと、老人が一人、よぼよぼと出て来た。
見るからに貧しく、最底辺に生きる者であることは、すぐ知れた。
信長の姿を見ると地べたに座って、額を地に何度も擦り付けて、深く深くお辞儀する。
「おお、達者か。」
信長は気軽に声を掛けて、あれこれ話をする。
「どなたです?」
老人と別れた後、不思議に思って尋ねた。
「この路はよく通るのだが、あの者は身体が不自由で、いつもここで物乞いをしておった。憐れに思って、土地の者に金品を渡して小屋を建て、養ってやるよう計らった。それを恩に感じて、俺が通るのを見ると、ああやって出てきて挨拶をする。」
衝撃を受けた。
武衛陣から逃れて街を彷徨った、悪夢のような日々が、鮮やかに蘇った。
誰か、助けて。
心はいつも悲鳴を上げていたが、誰も手を差し伸べてくれなかった。
この人は、世の頂点に立ちながら、底辺を這いずり回る者の痛みもわかるのだ。
「どうした?何を泣いている?」
信長が気づいて問いかけてきた。
「殿は……お優しいです。」
やっと言った。
「ああいう者たちは、前世で悪行を積んだから報いを受けたのだ、その償いをするのは当然であると、省みる者は誰も居ません。そうやって手を差し伸べて下さるお気持ちを、どんなに嬉しく思ったことでしょう。」
今と違って、公共の福祉も無い時代である。
為政者が民を省みることなど、聞いたことも無かった。
でも彼は違う。
「お優しい、俺が?」
自嘲した、ように見えた。
「叡山を焼き討ちしたときには、谷を僧俗男女の死骸が埋め尽くした。先だって上京を焼き討ちしたときには、七千戸が焼けた。公方を京から追い払ったこの、俺が?」
紅を鋭く見た。
「おべんちゃらを言うな。そういうの、大っ嫌いだ!」
鼻をすすって、涙を拭いた。
「嘘、がお嫌い、なんでしょ?」
信長は馬の歩を緩めた。
「僧たちは行い澄ましているふりをし、偉そうなことを言いながら、武器を振り回し、女犯の罪を犯し、やりたい放題している。上京はいつも公方の側に立つ。公方は殿を欺いて、地方の大名たちに織田を討てと命じている。そういう嘘に満ちた世界が嫌、なんでしょ?」
「遅い!」
怒鳴った。
「急げ!」
馬に鞭をくれて走り出した。
紅も続いた。
鷹狩りは、大掛かりなものだと何百人もの勢子を使って軍事演習の代わりにもなるが、今回は三十人ばかりのこぢんまりしたものだ。
勢子が獲物を追い立てて、鷹匠の元へ集める。鷹が放たれ、獲物を仕留める、という段取りが普通、なのだが。
信長の鷹狩りは、普通とは一味も二味も違う。
普通、獲物を探しにいく鳥見という役は一人一人で行うものだが、信長は二人一組で行かせる。獲物を見つけると一人が報告に走り、一人は見張りに就く。たとえ獲物が移動したとしても見失うことはない。
「これは上杉から貰った鷹だ。」
彼の愛鷹で真っ白だ。
名を『乱取』といい、殊に羽振り良く飛翔力に優れる。
その鷹野にはいつも見物人が群集するというが、今日は紅が独り占めだ。
狩りの獲物である鶴や雁は、田畑などの開けた場所で警戒しながら餌を取っている。距離が遠いと逃げられる。その為、獲物の鳥に『寄せる』、つまり鷹を据えて獲物に近づくため、馬に藁を乗せて家臣に引かせ、獲物の周りをそろりそろりと回り、次第に近づかせる。
信長自身が鷹を据えて馬の陰につき、十分に近づいた頃合いを見て、馬の陰から走り出して鷹を羽合った{放った}。
紅は、雲ひとつ無い空を眩しく見上げた。
青空の中に浮かんだ白い点のように見える鷹が、獲物を狙って急降下する。
掴んだ。
獲物ともつれあいながら、ばたばたと地上に降りてくる。
信長が鷹に駆け寄る。
鷹が獲物を捕らえても油断は出来ない。
鷹より獲物のほうが力が強くて、逆に怪我したり、時には死亡する例もある。鷺などは、長い尖った嘴で相手の目玉をつついて攻撃してくるし、群れを作る雁などは、衆を頼んで反撃し、相手を自分たちの翼で打って、文字通り袋叩きにしてしまうことさえある。なるべく早く近づいて、『据え上げ』{拳に戻す}必要がある。この際、獲物が人間に対しても攻撃してくる恐れがあって、用心しなければならないのだが、信長は慣れた手つきで押さえる。
実は、信長の一連の行動は全部、鷹匠の仕事で、主のやることではない。
でも、自分でやらなきゃ気が済まない。
そこが信長の信長たる所以である。
(この人は、自分が『殿』であるっていう意識が無いんだろうか)
「獲ったぞ、見ろ!」
信長が、手に大きな鴨をぶら下げて叫んでいる。
紅は笑い出した。
楽しかった。
信長の鷹は優秀だった。
雉や兎など、たくさん獲物を獲った。