第51話 新しい試み
世間は、甲斐の武田信玄が大軍を率いていよいよ、上洛するのではないかと、騒がしかった。
きっとこの上洛には、陸奥守さまが一枚噛んでおいでだろう、と思ったが、あれ以来、何処に居るやら、さっぱり行方が掴めなかった。
信長が、上杉と結びたがっているのも、その辺の事情であると思われたが、彼は詳しいことは何も教えてくれなかった。近いうちに又会おう、と言ったものの、何の音沙汰も無く、日々が過ぎた。
年を越え、野にも山にも一斉に花が咲き始めたある日、菜屋に懐かしい人が顔を出した。
「まあ、吾兵衛さん。」
老人は背に大きな広包を背負って、汗をかいている。
「大変だったでしょう。」
鞠が茶を運んできた。
「ぜひ、お見せしたい物がございましてな。」
包みを解いた。
紅も鞠も歓声を上げた。
真っ白い反物がそこにある。
「触ってみてください。」
吾兵衛が勧めると、二人は、恐る恐る摘んだり、さすったりした。
「滑らか。」
「気持ちいい。」
「ふわっとしている。」
「柔らかい。」
うっとりして感想を並べると、老人はにこにこしている。
鞠が生地に目を凝らして、
「糸が太くて地が厚いから、一見、粗雑に見えるのに」
「なんでこんなに肌触りが良いのかしら?」
二人が口々に言うと、五兵衛は
「一度洗って糊を薄く含ませてから、打盤に載せて砧で打つと、光沢が出て滑らかになるのです。洗えば洗うほど、味わいが出ます。それにしても、いやはや」
綿を育てるのが、こんなに大変だとは知らなかった、と老人は苦労話をした。
虫は付き易い、水遣りの加減が難しい。
手を掛けすぎてもいじける、放っておけば雑草のようになる。
「実が弾けたら弾けたで、このふわふわした部分と、小さくて硬い種を分けるのが大変ですしね。」
「量産するのに手間がかかるのは困るわね。」
「でも摂津は、綿の栽培に適しているようでございますよ。」
綿は、温暖の地で、晩霜の恐れが無く、雨が少なく、水利の便も良い、石交じりの砂地によく育つ。
「作物を栽培するのにはやはり、気候や土地が合っているのが一番です。綿は元々は、天竺から来た異人が三河にもたらしたのが最初だそうですが、三河より、ここのほうが合っているかもしれません。」
「成功すれば、砂地の多いこの土地も豊かになれます。」
「この地の者が豊かになるだけではございません。綿の着物を、皆が着ることが出来るようになれば、日本中の人々の生活が変わるでしょう。」
鞠が言った。
「ただ品質的には、いまひとつなのです。」
吾兵衛は言った。
「おそらく肥料です。金肥{購入肥料}があれば宜しいのではないか、と土地の者は言っております。」
「金肥?」
「油粕や干鰯などです。たいていの植物は、堆肥や米糠等の自給肥料{農民の生産過程で得られた残滓肥料}で育つのですが、綿はそれでは、上等な綿花が取れないのです。」
「干鰯……。」
魚、か。
ふと、思い当たる人がいた。
「わかりました。何とかします。」
「種が欲しいと村の者が言うので、皆に分けようと思います。」
吾兵衛は言った。
「村じゅうで作って、菜屋に納めます。この菜屋から、摂津の綿の取引は始まるんです。」
「吾兵衛さん、引退してのんびり暮らすおつもりだったのに」
鞠が言った。
「大変なことになってしまったんじゃないですか?」
吾兵衛は笑った。
「正直まさか、こんな暮らしを送ることになるとは思ってもみませんでした。でも手前はずっと働いて参りました。田舎に引っ込んで何もやることが無かったら、かえって具合が悪くなってしまいそうです。確かに大変ですが、満足しております。こうしてお店に顔を出す用事も出来ましたし。」
「用が無くてもどうぞ、いつでもおいで下さい。」
紅は心から言った。
磯路も優しかったが、店の人たちも、道端で拾われた彼女を邪険にしても何ら不思議は無いのに、黙ってよく盛り立ててくれた。
この人たちあってこそ、今日の彼女がある。
「綿の生産が成功したら、益々顔を出す機会は増えましょう。」
吾兵衛は言った。
「その日がそう遠からず来るように、頑張ります。」
「有難うございます。」
紅は手を突いた。
鞠も倣った。