第50話 武辺の家
部屋の中央に、兜と大袖を装備した胴丸が鎮座している。
鎧といっても色々種類があって、時代によっても全然形が違う。
胴丸は平安時代から用いられた。当世具足と呼ばれる戦国末期流行の鎧の原型となった鎧であるが、軽快で機能性に優れており、動き易いので、この時代まで生命を保っている。
古風で優雅な意匠である。
総金{本}小札に四色の色々縅という華やかで精緻な仕立てである。上方の鎧造りの粋を集めた、最上級の豪華な甲冑と言うほか無かった。
「どうだ。」
信長は得意な気持ちを隠せない。
紅は声も出ない。
「素晴らしいです……。」
やっと言った。
「近づいて拝見しても、よろしいですか?」
二人で近くに寄った。
紅が興奮して色々問いかけるのに解説しながら、信長は満足そうだ。
額を寄せ合って又、仲良くなれた、ようだった、が。
「東国では古風な甲冑が好まれると聞いたから、当世具足は避けたのだ。」
「えっ?」
「これは、山内{上杉謙信}殿への贈答品だ。」
信長の一言で又、雲行きが怪しくなってしまった。
「はあ……。」
紅は沈黙してしまった。
「何だ、何が気に入らない。」
信長はむっとした。
「そち、あんなに褒めていたではないか。まさか、媚へつらいおってか!」
そういうの、一番嫌い。
青筋立てた顔に書いてある。
信長は、極めて厳しい上司だったから、宣教師フロイスが描いたその姿にも
彼がちょっと合図すると、部下たちは、狂暴な獅子の前から逃れるように、重なり合って消えていく。又、彼が一人の名を呼ぶと、外で、百名余りが一斉に返事する有様。
とある。
紅も、彼の怒りが恐ろしかった。
「違います。これは、素晴らしいです。でも好みに合わないんです、上杉家の。」
必死に言った。
「上杉の甲冑は、上方のとは違うんです。」
上杉家は、根っから武辺の家、なんです、と言葉を尽くして説明した。
甲冑・刀装は極めて実戦的で、機能美を追求した鋭い感覚の品を、越後の選りすぐりの職人が作っていること。
「だって、かつてお屋形さまが、半年ばかり上洛なさったときなんて、わざわざ職人もお連れになったんですよ、上方の職人では、壊れた物を修理することさえ無理だからって。」
軍配など、小物に至るまで、上杉家独自の物を使っていること。
あと、色。
「お屋形さまは、黒地に浅葱色を合わせるのがお好みなんです。これは素晴らしく美しいですが、赤なので、どちらかというと武田家のお好みだと思います。」
「わかった。」
信長は言った。
納得すると、決断が早い。
「贈るのは、やめる。」
「いいえ。」
紅は言った。
「お贈りになられるとよろしいかと存じます。」
「好みに合わないと、そち、申したばかりではないか。」
又、眉間に皺が寄っている。
嵐の前触れ。
「どっちなんだ、いいのか、悪いのか。」
「確かにお好みには合いませんが」
紅は信長を宥めた。
「上方職人が作った最高傑作だということは、御覧になればわかります。このように素晴らしい物をお贈りになられるお気持ちを、嬉しく思われるのは間違いございません。ぜひ、贈るべきです。ただ、大切なのは今後です。」
黒々と澄んだ目で、彼を見つめて言う。
(吸い込まれそうだ)
こんなときに、関係無い感想が、彼の頭を掠めた。
「次はお好みに合う物を贈らないといけません。そうすれば、お互い全く好みが違うのに、相手の好みに合わせた物を贈って下さったということがおわかりになって、益々嬉しく思われることでしょう。そこまで推察出来るお相手だからこそ、まず、この素晴らしい甲冑を贈って頂きたいのです。次こそが勝負です。」
「ふむ。」
甲冑を眺めて考えた。
「では」
家臣に甲冑を仕舞うよう命じた。
「そちに、次回の贈り物を選ぶことを命ずる。考えておけ。帰る。」
店を出た。
「今日はそちに、山内殿への贈り物を見てもらうつもりで来たのだ。思ったとおり、好みがよくわかっているようだな。そちも商人の端くれであろう。きっと俺も、山内殿も満足する物を選べ。」
「え……私に会いに来てくださったと思っておりましたのに。」
信長は、紅を、改めてつくづく眺めた。
前、会ったときはまだ、少女だったが。
彼女は『娘』になった。
艶やかな黒髪が腰の辺りまで覆っている身体は、手も足もすんなりと伸びて、ふっくらした胸も、ほっそりした腰も、娘らしく丸みを帯びてきた。青白かった肌の色も、底に暖かな血の色を浮かべる薄紅色になって、滑らかで瑞々しい肌は、今を盛りの若さを誇っている。
町を歩けば、付け文を貰わぬこと無く、道行く人の振り返らぬ日は無い。
目を逸らした。
彼も、三十八歳の男盛りである。
「慎重に振舞え、と申したではないか。」
早口で呟いた。
馬上の人となった。
「又、会おう」
紅を見下ろしながら、付け加えずにはいられなかった。
「近いうちに。」
鞭をくれた。
馬を飛ばしながら独りごちた。
「皆が騒ぐ訳がわかったな。」