第3話 板額
実は人一倍、神経質で気が短い。だからこそ平静を装っているのだ。
てっきり相手は泣きだすかと思った。
本当は彼こそ泣きたい気分だったから。
でも相手は、
「あれだけ走ったのですから仕方ありません。」
冷静だった。
ドロドロになってしまっているが、いいものを身に着けている。
ついでに言うと、男かと思ったら女だった。
しかも大層汚れてはいるものの、なかなか整った顔立ちをしている。
途中で見つけた小川で手足と顔を洗ったら、ほんとに綺麗な子だということがわかった。彼より二つ三つ下、といったところか。
「どうしましょう。」
聞く。
「闇雲に歩くのは危険だ。」
空を見上げた。
夕闇が迫っている。細かい霧のような雨も降り出した。
「何処かで雨を避けよう。」
山の斜面が抉れて天然の洞窟になっている所で、雨宿りした。
「少々お待ちを。」
彼を洞窟に待たせて、女の子は姿を消した。
暫くして、小枝と笹の束を抱えて戻ってくると、濡れているので少々煙が立ちますが、ご容赦を、と断ってから火を起し始めた。上手く乾いた枝を見つけてきたらしく、言うほど煙くない。笹の束から魚を取り出し、小枝に刺して、馴れた手つきで焼き始めた。
「そち……どうした、それは?」
魔法のようだ。
「さっきの小川にいた魚です。人間を知らないから幾らでも取れます。お水、如何ですか?」
竹筒を取り出して勧めてくれる。
「私は海沿いの町で育ったので」
彼がぽかんとしているので説明した。
「釣りは得意なんです。あせることはありません。水もあるし、明朝からじっくり帰り道を探しましょう。」
かといって漁師の娘にも見えない。
海の娘がどうしてこんな山奥に、と彼が尋ねると、
「今日はお祖父さまのお供で参りました。御病気の方のお見舞いです。でも私は待たされている間、抜け出して来てしまいました。あちらのおうちのお子さまがお相手をしてくださるとのことだったのですが、目上の方なのでちょっと気詰まりで……。」
肩をすくめた。
「あの、御存知ありませんか?野生の人参が生えているという……。」
「そちもか!」
声が大きくなってしまった。
二人とも同じ目的で、ここに来たのだった。
「お祖父さまが病気がちで」
彼女は言った。
「もし万が一のことがあれば、我が家は断絶し、私はひとりぼっちになって住む所も無くなってしまいます。今、お祖父さまと二人暮らしなのです。二年前まで叔母さまがいらしたのですが、亡くなってしまわれたので。」
死んだ叔母のことが大好きで尊敬していた、と言って彼女の話ばかりする。
とても美しい女性だったこと。外見ばかりでなく心根も優しかったこと。信心深くて、よく、お坊さまを呼んで祈っていたこと。でも肺病にかかり、若くしてこの世を去った。
「裁縫がお得意で、素晴らしい陣羽織などを作っていらっしゃいました。お祖父さまが府中のお屋形さまに、よく献上なさっていました。」
「そうか。ではそのうち俺も、その陣羽織を拝見出来ることだろう。」
彼は言った。
「俺は次男だ。大きくなったら、お屋形さまの身近にお仕えすることになろう。俺はお屋形さまを尊敬している。勿論、父上のことは尊敬している、でもそれに負けず劣らず、俺にとってお屋形さまは大切なお方だ。お屋形さまの戦ぶりを知っているか?」
わくわくしている。
聞いて欲しそうなので、彼女は言った。
「お話ください。」
「ほんとうにお強いそうだ。黒雲のように群れている敵の中にでも、皆の先頭を切って錐で穴を開けるように一騎駆けで入っていかれる。敵もお屋形さまを恐れて水が引いていくように道を空けるそうだ。お屋形さまを馬回りとしてお守りするのが俺の望みだ。」
気負って言った。
「私もお屋形さまをお慕い申しております。」
彼女は目を輝かせて言った。
「薙刀や剣を習い身体を鍛えているのも、大きくなってお屋形さまのお側でお仕えするため。私は板額になりたいのです。」
「えっ、板額?」
鼻白んだ。
「板額は、ちょっと……。」
板額は平安時代末期の越後にいた女武者だ。弓の名手で巴御前と並ぶ女傑として有名だが、
(醜女としても有名だ)
こんなに綺麗な子が、大きくなって板額になってしまうなんて。
もったいない。
彼女にはこのままでいて欲しかった。
「え……駄目ですか、板額は?」
小首をかしげて、黒眼がちな目で、彼を見る。
可愛い。
「いや、許す。」
「良かった。」
ぱっと笑った。
益々可愛い。
(いいや。これだけ可愛ければ、ちょっとくらい板額でも)
一緒に戦に行ける。
「若さまは、御家族は?」
「俺は父上と母上、一番上に兄上、あと姉上と妹だ。」
「わあ、御家族が一杯なんですね。楽しそう。」
羨ましそうな顔をした。
「楽しい、もんか。」
姉や妹の話をした。
「でも姉妹喧嘩出来るのは、いらっしゃるからです。最初から居なければ喧嘩にもなりませんもの。」
彼女は言った。
「女性ですからすぐお嫁においででしょう。おいでにならなくなったら有難みがわかります。」
「そうかな?」
「そうですとも。」
熱を込めて言った。
「そうだ。」
いいことを思いついた。
「そなたも遊びに来るがよい。歓迎するぞ。」
「ほんとですか?」
「ああ。」
女なんてこれ以上要らない、と思っていたが。
この子なら大歓迎だ。
「あれ?」
首をかしげた。
「どうした?」
「今日、お祖父さまがお見舞いに伺ったおうちも……。」
言いかけて、首を振った。
「あ、いえ、何でもないです。」
闇が濃くなった。
紅は懐から細い笛を取り出した。失礼いたします、と会釈すると唇に当てた。
細い、でも冴えた音が響いた。
後から後から音が転がり出てくる。軽快で楽しげな、綺麗な色の玉が後から後から涌いてくるような不思議な音楽だった。
ひとしきり吹くと、唇から外して膝に置き、一礼した。
「上手いな。何という曲だ。」
「さあ」
首を傾げた。
「わかりません。叔母さまから教わったのですが、そもそも叔母さまも御存知無い、とか。よく吹いていらっしゃいました。そうそう、お坊さまをお呼びしたときなど、お坊さまも琵琶を奏じて合わせていらっしゃいました。」
たぶん、お坊さまが奏じていらしたと思うんですけど、と自信無げに付け加えた。
何故だか、
「その方がいらっしゃるときは、必ず遠ざけられてしまって」
部屋に案内されていく後姿を一度、拝見しただけなのです。
「不思議ですよね。」
自分に言い聞かせるように独りごちた。
それから小さなクシャミをした。
梅雨寒で、夜になると冷えてくる。
「こっちへ来い。」
身を寄せ合って座った。
さすがに疲れたのか、眠そうな顔をしている。
肩を貸した。
彼女の肌の温もりを感じた。
どきどきした。
今まで経験したことの無い感情だった。
彼の肩に頭を預けて目を閉じていた彼女が、はっとして身を起こした。
「どうした?」
風に乗って、何か音が聞こえてくる。
洞窟の入り口まで行って、下のほうを見た。
雑木に覆われて見にくいが、木立の中から、ちらちら灯りが見えている。
顔を見合わせた。