第47話 月日
それから三年の月日が流れた。
この間、天下布武に乗り出した信長が、次第に自分が束縛されていると感じるようになった義昭と対立し始める。
武田・朝倉・浅井を始めとする武家勢力と、比叡山・石山本願寺に代表される宗教勢力を結集した、織田包囲網により、信長は苦しめられるようになる。
しかし、姉川の戦いで朝倉・浅井を破り、比叡山を焼き討ちし、信長は、旧勢力包囲網を一つ一つ撃破していった。
このように世間は騒がしかったが、紅の周囲では珍しく、平穏な日々が続いた。
磯路は、だんだん弱っていって、寝たり起きたりする日が続いたが、ある日、紅に言った。
「あたしも、いよいよ駄目だ。」
「そんなお気の弱いことをおっしゃらないでください。」
「いいや。今後のことが気がかりなんだ。頭がはっきりしている間に決めておきたい。鞠と小太郎も呼んで来ておくれ。」
磯路の床の前に三人集まった。番頭や手代たちも呼ばれた。
「この店だが」
見回して言った。
「紅、お前に任せたいと思う。」
驚いた。
「とんでもない。血筋から言っても文句無く、鞠さまです。」
「彦蔵{松永久秀}が許さない。」
確かに、久秀は鞠を『預ける』とは言ったが、菜屋の跡取りにしてもいいとは言わなかった。
「鞠と小太郎のことは、彦蔵も交えないと話が進まない。そのことは又、別の機会にしよう。今はこの店のことのみ、決めてしまいたい。」
磯路は水を飲むと、話を続けた。
「あたしが尋ね人がいると言ったことを、覚えているね。」
紅が助けられたのも、そもそも磯路が、誰かを探して人の集まる所へ来たおかげだった。
あれからも磯路は、何か人が集まる催しがあるたびに出かけて行ったが、誰を探しているか、決して言わなかった。
鞠は親戚だから知っているかと思ったが、磯路と久秀の折り合いが悪かったこともあり、事情は全くわからない、とのことだった。
「探しているのは孫息子だ。この家を出て行って、もう十年ほどになる。まるきり消息が掴めない。生きていれば紅、お前より二つか三つ上になる。」
はっとした。
だから小太郎のいる、鞠じゃないのか。
「奥さま、私は。」
「わかっている。お前には喜平二がいるんだろう?」
「いえ、あの方のことは……。」
「いいんだよ。生きているかどうかさえわからない者を、お前に押し付ける気は無い。でも細々でもいい、店を守って、孫に渡してもらいたいのさ。それがあたしが出来る、たった一つの罪滅ぼしだ。」
咳きこんだ。
紅が背中をさすった。
水を飲んで続けた。
「かつてあたしは、娘が、ある男と一緒になるのを反対した。不幸になるのは目に見えていると言って。今でも、その考えは間違っていないと思うが、無理強いしたため、娘は孫を連れて出て行ってしまった。その結果、娘は死に、孫も、何処でどうしているやらさえわからなくなってしまった。そのことはずっと、後悔している。」
紅を見た。
「お前さんが恩義を感じて、店のために自分を犠牲にしやしないか心配だ。だからもし、喜平二に再会出来たら、そのときは、いつでも店を出て行ってくれて構わない。いや、喜平二とのことに限らず、自分の幸せを掴むためなら、無理はしなくていいんだ。この店の裁量は全て、お前さんに任せよう。」
「わかりました。」
そこまで言われたら、もう断れない。
「一つ、お願いがあります。」
鞠に向き直った。
「もしお孫さんがいつまでたっても現れないときは、鞠さま、もしくは鞠さまの縁者の方に、この店を託したいのです。私はそれまでの陣代{代理人}としてなら、お引き受けしたいと思います。」
鞠も承諾した。
磯路は安心したようだった。
それからは益々、床に就く日が増えた。
そんなある日、菜屋に数人の客が訪れた。
奥に通されると、皆でぼそぼそと話し合っていたが、そのうち、珍しく磯路が声を荒げているのが聞こえた。
何か言い争っていたが、ぴたりと声が止むと、ぞろぞろと客が出て来た。
紅が見送りに出ると、客たちは黙ってじろじろと彼女を眺めて、帰っていってしまった。
番頭の吾兵衛に聞くと、
「亡くなった旦那さまのご親戚の方々です。納屋衆といって、この堺を仕切っていらっしゃいます。」
納屋衆が代々、会合衆{自治組織の指導者}を束ねる有力な面子であることは、紅も知っている。
「あの方々が出ておいでになったら、面倒なことになりそうです。」
ところがそれから三日もたたないうちに、磯路は、ぽっくりとあの世に行ってしまった。