第44話 綸旨
永禄十年四月、久秀は弥八郎だけ連れ、三好義継を擁して、堺から大和へ帰った。
畿内を舞台にして、両軍の戦闘は激しさを増した。形勢は逆転し、三人衆は押され気味になる。そんな中、十月には東大寺大仏殿が焼けてしまう。両軍の勢力は拮抗し、久秀と三人衆の戦いは延々と続くかに見えた、だが。
この年の十一月出された一通の綸旨が、日本の歴史を変える。
美濃を制圧し、『天下布武』の印判を使い始めた織田信長に、正親町天皇が援助を要請したのである。これが信長の上洛の大義名分となった。
翌・永禄十一年二月、征夷大将軍に任命されたものの上洛できないまま、九月に三好三人衆が擁する足利義栄が世を去ると、その月の末には、織田信長が足利義昭を奉じて上洛してきた。
六万{四万ともいう}の大軍を率いた信長は、近江の六角承禎を蹴散らし、三好三人衆を阿波に追い落とした。松永久秀と三好義継はいち早く恭順の意を示し、本領を安堵された。
義昭は将軍に任命された。
次に信長は、和泉・摂津の諸都市や石山本願寺に、矢銭と称して軍用金を要求した。
堺は二万貫要求された。
五千貫要求された石山本願寺は応じたが、堺は断固拒否した。
以前から三好と結びつきが強かったせいもあるが、将軍さえ口出しを遠慮していたとも言われるほどの、自治都市としての誇りもあったと思われる。
町は騒然となった。
搔い堀りして堀を深くし、櫓を高くする槌音が響いた。雇い入れられた大勢の、柄の悪い浪人者が、威張って往来を闊歩した。
そんなとき、久秀から糸千代丸に便りが届いた。
鞠を返せと言ってきたかと思って、子供三人肩寄せあって、どきどきしながら文を開いたが、違っていた。
松永久秀は又、将軍と関わることになった。
義昭の政所執事を務めている糸千代丸の父、摂津晴門に会ったというのである。
嫡男が無事と聞いて、たいそう喜んでおいでだ、すぐ来られたし、という内容であった。
「すぐ立つんでしょ?」
紅が糸千代丸に尋ねた。
「うん……。」
喜ぶと思いきや、微妙な表情をしている。
「あんまり気が進まない。」
ぽつんと言った。
「どうして?」
「俺は摂津家の嫡男だ。戻れば、政所執事の座が約束されている。」
結構なことじゃないの、と言いかけて、紅は口をつぐんだ。
「糸文字{糸千代丸}……主は選べないのよ。」
思い当たって言った。
「俺は以前、覚慶さまにお会いしたことがある……如何にも長袖{公家や僧侶}、という感じのお人だった。」
あたしは恵まれている、と思った。
お屋形{上杉謙信}さまも、亡くなった上{足利義輝}さまも、尊敬出来る人だった。新しい主である磯路も。
「お父上を安心させてあげないと。」
励ました。
「うん。そうだな。」
自分に言い聞かせるように言った。
『家』に尽くす。
それがこの時代に生きる人間の宿命である。
そうは言ったものの、糸千代丸は、なかなか出立しなかった。堺の状況が落ち着いたら、などと言って逡巡しているので、自分で決心がつくまでと思って、そっとしておいた。
ところが。
暮れも押し詰まった堺の町に、船を仕立てて、ぞくぞくと軍隊が上陸してきた。
中二階の虫籠窓から見下ろして、紅は糸千代丸と顔を見合わせた。
三階菱に釘抜きの旗印。
「間違いない。三好だ。」
呟いた。
叛旗を翻した堺の町から、都に進撃するつもりと見た。
今まで何度となく繰り返されてきた例である。
而してその目標は。
(公方だ)
頭の中にあの光景が蘇った。
又、繰り返される。
同じことが。
(阻止、しなければ)
糸千代丸の顔を見た。
彼も同じことを考えていることを知った。
仕度して磯路の元に行った。
部屋で書き物をしていた磯路に向かって、手を突いた。
「やっぱりおいでかい。」
磯路はため息をついた。
「どうしても、商人にはお成りで無いねえ。」
「必ず戻って参ります。」
言った。
「同じことが繰り返されるのを知っていながら、黙って見過ごすわけには参りません。」
糸千代丸と馬を用意していると、鞠も来た。
「私も行きます。」
糸千代丸が、止めようと口を開きかけたのを制して、紅は言った。
「では鞠さまは、父上に連絡を取ってください。」
「父と兄は、岐阜に帰った上総介{織田信長}さまに付いて行ったようです。若江城においでの左京太夫{三好義継}さまにお知らせいたします。」
「お願いします。お知らせした後、鞠さまは左京太夫さまの元にお留まりください。」
既視感がある。
あの日公方さまは、武田に使いせよ、とあたしにおっしゃったっけ。
それが今回は、三好に対抗するために、三好の当主に援軍を頼もうとしている。
気をつけて行けよ、と糸千代丸が鞠に言っているのを聞きながら、皮肉に思った。
三好三人衆の兵たちの監視をかいくぐって、町を出た。
鞠と別れて二人、京を目指した。
武衛陣は灰燼に帰したので、公方は今、本圀寺という法華宗の寺に住まっているという。
訪いを入れると出て来た人物を見て、紅はあっと声を上げた。
「明智さま!」
光秀も驚いたり、喜んだりした。
久秀の元から脱出した義昭は、近江から若狭、更に越前へと逃げて、朝倉義景を頼った。
朝倉家は越前の名門で、事実上の管領代だったからである。だが義景は上洛には消極的であった。上杉謙信を始めとする幕府に忠実な諸大名も周辺の事情が許さず、上洛出来なかった。そこで義昭は身分的には低いものの、美濃を制して日の出の勢いの織田家を頼ったのである。
「上総介殿は、自軍と新しく配下に加わった豪族たちを皆、美濃に連れて帰ってしまいました。付いて行かなかった豪族たちも皆、自領に戻っています。ここは織田の家中の者が二隊詰めている以外は、公方さまの奉公衆と若狭から来てくれた衆が少し居るばかりで、手薄なのです。お子たちが、あんな目にお遭いになったのに、早速駆けつけて下さって」
ちょっと目が潤んでいる。
「感謝します。」
奥へ連れて行きながら、尋ねた。
「何をお遣いになりますか?」
「鉄砲を」
紅は言った。
「お願いします。」