第43話 果心居士
秋になると、鬼灯のような緑の実が生った。暫くすると、枯れて茶色くなった。
ある晴れた日の朝、その実が弾けて、中から白いふわふわした物が溢れているのを紅が見つけて、久秀を呼びに行った。
「おお、やったな。」
久秀はにこにこした。
「成功じゃ。」
「何ですか、これ?」
「まだわからんか。」
久秀が呆れて言った。
「白い部分に触ってみよ。」
「……気持ちいいです。」
「そち、裁縫、全然駄目じゃろ。」
痛いところを突いて来た。
裁縫は女の基本だ。
勿論、紅も磯路に言われて、菅原神社の近くにある裁縫の師匠の元へ通った。でもどういう訳か、同時に習い始めた娘たちが見る見るうちに上達するのに比べ、彼女はいっこうモノにならない。
尊敬してやまない亡くなった叔母は、名人の域に達していたのに、あたしは。
(元々、才が無いんだもん)
最近は諦めの境地にある。
「そちの唯一にして、最大の欠点じゃな。ふん、女じゃない、わ。」
小馬鹿にして言った。
「じゃから、わしの魅力にも気づかないで、陸奥守なんぞにくっついて行ったりするんじゃ。」
「は?」
「おかげでわしは、弾正は今参りに袖にされただの何だの、と……。」
やだ、まだそんなこと、こだわってんの?
「小っちゃーい。」
「ん?何か申したか?」
「いえ、別に。」
「陸奥守の何処が良いのじゃ。」
しつっこいなあ。
「だって面白いじゃないですか。謀の塊みたいな方ですから。失敗しても失敗しても、全然挫けず、又、陰謀を廻らして。」
「おお、そうか!」
途端に元気になった。
「確かに、そういう男じゃ!皆にそう言いふらして、良いかの?」
「駄目、です。」
「……これはワタ、じゃ。」
綿は長い間、明や朝鮮からの輸入物に限られ、高級品で、普及もしていなかった。
「三好は阿波の出じゃ。今度、国許で、藍の栽培を試みることになってな。畿内のほうでは、染める生地になる綿を栽培してはどうかと試作し始めたところなのじゃ。麻よりも染まり易い。綿はいいぞ。何より暖かく、肌触りが良い。」
「でも、これっぽっちでは……。」
「もちろん、これだけでは足りない。じゃから知る辺を当たって、この種を元に栽培してもらえる農家を探すのじゃ。一軒成功すれば隣の家、更にその隣の家、と、そのうち一村まるごと、栽培するようになるじゃろう。」
「霜台さま。」
紅は言った。
「つまらぬことで足を引っ張り合っては揉めている、三好なんぞ放っておいて、商人にお戻りになったら如何ですか。」
「さっき申したことは、鞠の母親と夫婦になった頃、菜屋を盛り立てようとて考えておったことじゃ。」
久秀は、綿の白い塊を、手の内で慈しむように転がしている。
「わしは元々は、山城国西岡の武家の出じゃったが、生家が没落して、菜屋で手代として勤めておった。その際、磯路さまの姪の、鞠の母と知り合うたのじゃが、交際を反対されておった。苦心して、ようよう、結婚に漕ぎ付けた。が、わしは町に入ってきた三好の軍の中にいらした、若かりし日の才気溢れる修理太夫さまにお会いして、すっかり魅せられてしもうた。わしは菜屋を捨てた。鞠の母はわしについて来てくれたが、慣れない武家の暮らしに、いつしか心を病んでしもうた……果心居士という者がおっての。」
忍び、いや、幻術使いというべきか、と久秀は言った。
「雇ってほしい、と、わしの元にやって来たので、試すつもりで、こう言うた。」
自分は幾多の合戦に出たが、ついぞ、恐怖というものを知らぬ。そちの力で恐怖を味あわせてくれ。
果心居士は快諾し、人を遠ざけ、刀を持って夜の庭に降りるように言った。
庭に立つと、今まで雲ひとつなく晴れ渡っていた空が俄に掻き曇り、月を薄っすら覆ってしまった。風が蕭蕭として鳴り、雨もぱらぱら降り出して、もの淋しく心細い気分になった。と、庭の薄の陰から、
「『人影も無く雨もそぼ降るこのようなところで又、殿にお会い出来ますとは。』という声が聞こえてきた。鞠の母親の声じゃった。もう亡くなって久しかったのにな。」
「……。」
「初めて、恐怖を感じた。」
久秀は独り言のように続けた。
「それは、鞠の母親と初めて会うた日と同じ状況じゃったから、ではない。死んだ筈の人間の声が、何の不思議も無く聞こえる自分が怖かったのじゃ。妻が死に、弟が死に、修理太夫さまが亡くなった今となっては」
笑った。
「不思議でも何でも無くなったが。」
「綿作りで、天下を取れば宜しいのではありませんか。」
紅は言った。
「鞠さまも喜ばれます。」
久秀は何も言わなかったが、翌年の綿の植え付けの手配を考えるなど、乗り気になっているように見えた。
だが、ここに来て、事態は急変する。
三好家の当主、義継が突然、三人衆から離反したのである。義継は若年と侮られ、傀儡として扱われて、かねてより不満を抱いていた。
出奔した義継は、久秀を頼った。
義継からの使者に対面した久秀はたちまち、生き生きし始めた。
「長々と御世話になりました。」
胸を張って磯路に告げたのは、翌年の四月になってからのことである。
「どうしても、と要請がありまして。恩ある旧主のご子息からのたっての頼み、男として、断るわけにも参りませぬのでな。」
「へえ、それで、待ってましたとばかり、勇んでお帰りかい。」
磯路は、こんなこったろうと思ったよ、と、紅に言ったものだった。
「この御礼は後日。」
要らないよ何も、と磯路が言うのも耳に入っていないようで、並んで座っている子供たちに向き直った。
「さあ……」
と、鞠に向かって言いかけた。
鞠は、隣に座っている紅の袖をぎゅっと掴んで身をぴたりと寄せて、訴えるように父を見た。
紅は唾を飲み込んだ。
「あの、差し出がましいのですが」
久秀に向かって言った。
「鞠さまは、ここに置いて行っていただけませんか?」
無理な願いだとは知っていた。
跡取りとしての嫡男、スペアとしての次男以下の男の子たちはもちろん、大切である。でもそれと同じくらい、いや、久秀のように落ち目になってくるとそれ以上に、女の子も大事であった。他家と繋がるための良い手駒になる。あと二、三年もしたら嫁に出せる。
いや、切羽詰っている久秀としては、今すぐにでも婚約者として、鞠を何処ぞの家に縁付かせる必要があった。兄の久通もまだ若く、独身で、子を持たない。他に年頃の女子がいないからである。
さし当たって一番候補として挙げられるのは、三好義継であろうか。彼はまだ若いし、独身だから、不釣合いというわけではない、正室としては無理めでも、側室になら十分可能性があった。義継を久秀に繋ぐ、良い手立てになる。
この時代、女、特に姫君と呼ばれる身分の女の幸せは恋愛にはない。男もそうだが、『主』もしくは『家』の為、人生を捧げるのが幸せであった。蟻や蜂の社会を思い浮かべると、ぴったりかもしれない。一つの歯車になりきる、そこに個人は無い。でも身の振り方を考えて思い悩まなくて済むのは、ある意味幸せというものかもしれなかった。
しかしながら。
鞠は、考えることを知ってしまった。
久秀は鞠の顔を見た。
暫く黙っていたが、目を逸らした。
「当面、じゃぞ。」
言うと、磯路に頭を下げた。
「どうぞ、宜しくお願いいたします。」