第2話 若君
いつも『いい子』だった。
これからだって。
でも、それだけは勘弁して。
女は苦手だ。
『女』には不自由していない。
母は勿論、姉も妹もいる。
家族だけで十分。
ていうか、それ以上、要らない。
姉とはちょっと年が離れていて、お洒落と噂話しか興味が無いから話が合わないし、妹は……ああ、話合う以前の問題。我儘言って自分の考えを押し通すだけ。何かあると、すぐ泣いて、母親に言いつけるし。
これ以上、女なんて必要ない。
その、お客さんの女の子のお守りっていうのは。
わけ、わかんない、何で俺が。
何、話せばいいの、時間の無駄。
そんなの、侍女かなんかにお守りさせときゃいい。
俺は、やんなきゃなんないことがある。
いい薬がある、と聞いた。
兄上の病に効くかもしれない。
父上も最近お加減が悪くて、お城への出仕もなさっていない。
お二人を治したい。
その薬を採りに行きたい。
そう思って供も連れずに、一人で城を抜け出してきた。
八海山の奥に野生の人参が生えている、という話を聞いたのは、つい先日だ。
人参、といえばあらゆる病に効くという妙薬ではあるが同時に、なかなか手の届かない異国の高価な品であると聞いていたのに、なんでこの辺に生えているんだ。
最初は眉唾ものだ、と思った。
でも話してくれた家臣によると、
「厳密に言うと野生のものではないのです。かつて八海山の奥に集落がございましたが、朝鮮から持ってきた種を植えて栽培していたそうにございます。その村が山崩れで放棄された際、残ったものが繁茂しているとのことにございます。」
「このあたりでも採れるのか。」
「寒冷で多湿な気候で、黒い脂土ならば、栽培できるそうにございます。」
ぜひ手に入れたい、と思った。
八海山は越後三山のひとつで、霊峰として崇められている。山また山に囲まれた魚沼の地でも、頭一つ飛び出た山だ。貴重な生薬が手に入るというのも、さもありなんと思われた。
場所は聞いてきた。
集落が放棄されて久しく、夏草が生い茂ってはいるが、道は細々と続いている。たどれないこともあるまい。
坊ちゃま育ちとはいえ、彼も生まれたときから山に囲まれて育っていて、山歩きには慣れている。心を励まして登りはじめた。
熊避けに大きな鈴を身に着けている。
滅多に人が通らない道らしく、草いきれが凄まじい。その辺から折り取った木の枝で、背丈ほども伸びた草や伸び放題の木々の小枝を叩いて、掻き分けながら進んで行った。
ところが歩き始めて小半時もたった頃、誰かの悲鳴が聞こえてきた。
がさがさっと藪を分ける音がしている。
駆けつけた。
いきなり視界に熊の後姿が飛び込んできた。
もう一度悲鳴が上がった。
何も考える暇は無かった。
ヒュッと鋭く指笛を吹いて、こっちに熊の注意を引き付けた。
熊がゆっくりと顔を向ける。
こっちへ来る。
逃げ出したいのを我慢して、じっと立っていた。
目が合った。
にらみあった。
小声で鋭く言った。
「今のうちに逃げろ!」
悲鳴の主に届いただろうか。
がさがさと藪が鳴る音が遠ざかっていくのを聞いた。
充分遠くへ行ったと思った。
決して熊から目を逸らさず、じりじりと後退し始めた。
だが熊もついてくる。
誤算だった。
最初の獲物を逃し、こっちは逃すまいと固く決心しているようだ。
仕方無い。
計略を練った。
(あとどれくらいだ?)
心の中で距離を測った。
自分と相手の歩幅を計算する。
よし、いける。
背中を見せて走り出した。
熊の本能にスイッチが入ったのを確認した。
追ってくる。
こっちも必死に走った。
獣臭い息が背後から迫ってくる。
でも。
目標が見えてきた。
あと、少し。
背中にガッと歯が迫る気配がした。
今だ!
飛んだ。
彼は斜め下に、熊は真っ直ぐに。
足元は空だった。
そのまま熊の身体は落ちていく。
彼の身体は、崖の際にせり出していた木の幹に引っかかって、危うくぶら下がった。
枝に手を掛け身体を安定させてから、下を覗き込んだ。
熊はちょっと下のガレ場でもがいている。
崖によじ上った。
走って、さっきの場所に戻った。
悲鳴の主は少し離れた藪の中で見つかった。
へたりこんでいる。
「く、熊は?」
「崖の下だ。でも又、上ってくるかもしれない。逃げるぞ、立てるか?」
手を貸して立たせた。
びっくりしているだけで、何処も怪我は無さそうだ。
手を引っ張って走り出した。
道を外れて滅茶苦茶に走った。
もう熊も追いかけてこられないだろう、と思って立ち止まった。
二人とも地べたにへたりこんだ。
「あ、有難うございました。」
相手は息を切らして言う。
「く、熊は、どうやって……。」
「行きがけに道を見ていたら、粘土状になって滑りやすくなっている場所があった。下が崖になっていたから、導けば落ちると思った。でも礼には及ばぬ。運が良かっただけだ。運に頼るなんて、将としては恥ずべきことよ。本当の天才なら運も実力の内だが、残念ながら俺はまだ遠く及ばぬ。しかし」
はじめて相手をじっくり見た。
村の子かと思ったら。
「そちも迂闊だ。山に入るときに熊の対策を考えるのは、基本中の基本だ。」
相手はしょんぼりした。
「鈴を身に着けてはいたのですが。」
少女が懐から取り出したそれに、少年は目を奪われた。
『緑したたる』とは、こういう色をいうのだろうか。透き通るような深緑の、艶々したさくらんぼほどの石、それが二つもあって、小さく可愛い金色の鈴と共に、赤い組紐で括りつけてある。
(翡翠、だ)
色彩が鳥のカワセミに似ているので、こう呼ばれる。
越中にほど近い姫川・青海川のほとりで算出される硬玉であるが、多くは緑に斑が入っており、河原や海岸で波に洗われ、細かく割れてしまっている。こんなに透明で大きなものは珍しい。かつては王者の玉と呼ばれ、魂の象徴として尊ばれていたと聞いている。
「もっと大きい音を出さなければ。歌でも歌って行くのだったな。それに熊に出会ったら、騒いでは駄目だ。熊は元来、臆病な動物だ。こちらが怯えているのと同じくらい、怖がっているのだ。鈍重なように見えて軽く馬くらいの速度で走るから、逃げ切れると思ったら大間違いだ。静かに、決して背中を見せぬように、じりじり下がって立ち去るのだ。もっとも今日のは、少し腹が空き過ぎていたようだったが。」
「申し訳ございませぬ。」
「謝ることはない。俺もしくじった。」
内心焦っている。
でもこんな時こそ、冷静にならなければ。
「道を失った。」