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火の如く 風の如く   火の章  作者: 羽曳野 水響
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第37話 水の街

 淀川・大和川などから流れ出た大量の土砂は、大きな砂堆(さたい・さすい)形作かたちづくった。この砂堆の上に、住吉すみよし神社神幸(しんこう)所や開口あぐち神社などが建ち、海の民の信仰を集めるようになった。港が築かれ、大陸や朝鮮半島の国々と交流するための国際的な港湾として発達していった。

 十一世紀になると、この地は摂津せっつ和泉いずみ両国の境界の地、すなわち『さかい』と呼ばれるようになった。

 摂津・和泉は商品流通が盛んで、貨幣経済が発達した。

 都を目指して集まる商品は、瀬戸内海を通って大阪湾に入り、陸揚げされて陸路を、あるいは川船に積み替えられて、淀川をさかのぼる。この膨大ぼうだいな物資を一時保管する倉庫が建てられ、多大の利潤りじゅんを得ることになった。

 又、奈良春日大社に魚介類ぎょかいるい上納じょうのうする供菜人ぐさいにんでもあった堺の漁民たちは、奉仕の代わりに諸国を自由に往来する特権を与えられ、やがて全国をまたにかける廻船業かいせんぎょうに転じていった。

 室町時代に入ると、地方の荘園しょうえんから都の荘園主への年貢ねんぐ公事くじなどの納入に当たって、為替かわせ割符わっぷともいう}が利用されるようになった。堺には、これらを扱う金融きんゆう業者が勃興ぼっこうした。 

 港から東へ伸びる大小路は、砂堆を横切ると長尾街道と竹内街道の二本の道に分かれ、河内かわちから大和やまとを結んでいる。大小路の北は摂津の国に属する北庄、南は和泉の国に属する南庄である。

 店は、堺を代表する道である大小路と大道がちょうど交わるところに位置する中浜町に在り、屋号やごう菜屋なやといい、あるじの名を磯路いそじという。『』は、『』に通ずる。

 もう一つ、魚屋、と書いてやはり『』と呼ぶ家系がある。菜屋なや元々(もともと)八百屋やおや魚屋なや元々(もともと)魚屋さかなやだったという。合わせて『という一族を成していた。

 この納屋一族は、読んで字のごとく、納屋なや、つまり倉庫業を営んでおり、堺でも指折りの実力者で、自治組織の主要メンバーだった。

 磯路の店は、納屋一族の中でも筆頭格ひっとうかくだったが、先代せんだいが亡くなってからというもの、没落ぼつらく一途いっと辿たどっている。他の納屋が単に倉庫業に留まらず、廻船業その他、年貢ねんぐの前払いや年貢米の現金化などの江戸時代、蔵前くらまえの『札差ふださし』が行っていたような金融業をって、手広てびろく盛んに商売していたのに比べ、菜屋は、文字通りの倉庫業しか行っていなかった。

 紅が活気かっきが無いと感じたのも道理どうりで、倉庫から時たま、物を出し入れする以外に、人の動きは無いのだった。

 店にいる人間も、主と女中の亀女以外は、年取った番頭ばんとうと、同じく年配ねんぱい手代てだいが一人、ぼうっとして気のかない小僧こぞうが一人に、亀女の手伝いをする小女こおんなが一人、倉庫の見回みまわりに年寄りが三人、雇われているきりだった。

 先代が亡くなってから、時が止まったままのような店だった。

 磯路は、自分が死んだらこの店はおしまいにする、と決めているらしく、これ以上、手を広げるつもりも無いらしかった。

 紅は、体調が戻ると、奥で使われた。

 きついことを言われたものの、磯路の用をするだけで、彼女は理不尽りふじんな主人ではなかったから、武衛陣の暮らしと比べても楽だった。

 でも頭に霧がかかったようで、身体が思うように動かなかった。

 若い身体は回復しても、恐ろしい経験が、紅の心をむしばんでいた。

 夜寝ていても何やら胸騒むなさわぎがして、はっと飛び起きた。そんなときには決まって、血刀を振るう公方の姿や、髪をつかんだ片手ごと打ち落とされた小侍従の首が思い浮かぶのだった。

 朝起き、昼間、言いつけられた用事を機械的に行い、夕方、翡翠ひすいを握って喜平二のために祈り、夜は油が勿体無もったいないから、早めに就寝しゅうしんする。

 毎日、はんで押したように決まりきった生活を続けた。

 変わったことといえば、喜平二がもし戦場に出ているならば、身体だけでなく彼の心も傷つかないように祈るようになったことくらいだった。

 時がゆっくりと過ぎていった。

 越後を出てからというもの、ずっとあわただしい生活を送っていた彼女にとって、久々(ひさびさ)に訪れた平穏な日々だった。

 静かな日常は、傷ついた紅の、身も心も次第にほぐしていった。

 なかでも磯路に用を言いつけられて外に出かけるのは、彼女にとって何より心の広がるひとときだった。

 碁盤ごばんの目のように区切られた都と違い、堺は、西方は海をもって、他の側は常にたっぷりと水がたたえられた二重の深い堀をもって囲まれていた。ほり街中まちなかをも、縦横じゅうおうつらぬいていた。土塁どるいの上に植えられた柳が、秋のに色づいて水面みなもに黄色い木の葉を落としている。

 畑に囲まれて、妙に田舎っぽい京と違って、堺の町の家々の屋根は、当時珍しい瓦葺かわらぶきであった。

 瓦葺は優れた防火機能を発揮するが、当時は上層の町家でのみ採用された。両妻を高く立ち上げ、小屋根をつけたものを卯建うだつといい、板屋根の端が風でまくれ上がるのを防ぐもので、防火の役割を果たしていたが、町並みのなかで一際ひときわ立派りっぱに見えるところから、古来こらい裕福ゆうふくな町家の象徴とされた。『うだつがあがらぬ』ということわざも、ここから生まれたという。堺の町には、立派な卯建が上がった、都でもめったに見ない、二階建ての豪商がのきつらねていた。

 『京の着倒きだおれ、大阪のだおれ』と言われるが、古くは『堺の家倒れ』が加わって、衣・食・住がそろっていたのである。

 海に向かって四本の運河うんがが開いていて、それらが、南北に通う運河で結ばれていた。う舟の往来の激しいこの周辺に、商家や倉庫が集中していた。商家は普通、直接、はしけ着岸ちゃくがん出来るように運河に接して建てられ、家と運河の間は、前庭を兼ねた公道となっていた。艀に降りていけるように、階段が屋敷毎やしきごとか、一定の距離を置いて、何箇所なんかしょか設けられていた。桟橋さんばしがあるところもあって、火点ひともごろことに、異国いこく情緒じょうちょあふれるながめだった。

 沖には、大きな船が何隻なんせきも泊まっていた。

 砂堆が堆積たいせきして出来た堺の港は底が浅くて、大きな船は入港出来なかった。艀が往復して荷物の積み下ろしをおこなっていたのである。

 今はもう秋風に乗って出て行ってしまったけれど、初夏しょかには異国から、珍しい品々を一杯いっぱい積んだ大きな船がやって来るのだと、手代てだい侘介わびすけが紅に教えてくれた。

 昼間の海は、彼女の見慣れた黒っぽい越後の海と違い、目も覚めるように明るく、日の光にさざめいていた。

 夕方、暮れなずむ沖に停泊ていはくした船に、ぽつんぽつんとともっているのをながめていると、わけも無く涙が流れてまなかった。

 故郷の海を思い出してか、それとも今はき人々をいたんでか、自分でもよくわからなかったが、ひとしきり泣くと、気分がさっぱりするのだった。こうして知らず知らず、紅の心は回復していった。



         挿絵(By みてみん)

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