第34話 流浪
気が付くと、岸に打ち上げられていた。
だいぶ流されてしまったようだった。
敵から奪った刀は何処かにいってしまった。
無意識に懐を探った。
幸い、翡翠の玉と藤四郎は無事だった。
日は既に中天にあった。
よろよろと立ち上がり、歩き出した。
泥人形のような小娘を、気に留める人は誰もいなかった。
街は、三好と松永の軍勢で満ちていた。
彼らは、都とその近郊に住む義輝の味方と思われる者全てを虐殺し、その邸を略奪し、火を放った。市外にある、公方に仕える人々が住んでいた二箇所の村は、徹底的に破壊され、焼き払われた。
人々は恐怖し、家に籠って、幼子が往来を走るのを見ても、新たなる暴行、又は謀反でも起きたかと怯え恐れ、戸口の隙間から垣間見て震えていた。
何処へ行って誰を訪ねたらいいのか、皆目見当が付かなかった。
ようやく思いついて武田を訪ねたが、信虎はもう駿河に向けて出発した後だという。三好と一戦交えるという彼の目論みは、敢え無く潰えたようだった。
次に、御霊厨子にある『桜御所』と呼ばれる{これは邸内に見事な糸桜があることによる}近衛家を訪ねたが、門を堅く閉ざし、誰も居ないの一点張りで、前久や御いちゃの局がどうなったかも全く聞き出せなかった。
四辻に行くのは最初から遠慮した。迷惑がられるのは目に見えていたからだ。
あと、思いつくのは、
(上杉家の京都雑掌{奉行}神余家)
考えた途端、切り捨てた。
上杉には頼れない。
行き場が無かった。
一人、都を彷徨った。
年齢的に中途半端だった。誰にも頼らないで自活出来る大人でもなければ、可愛いと思って養ってもらえるほど幼くもなかった。
人買いに拐かされるのも怖かった。
人目を避けて歩いた。
あれから雨は、じとじとと降り続いた。
飢えた。
畑の畦にうち捨てられた、筋だらけの、どう見ても腐りかけた、出来損ないの芋の切れ端を齧り、名も知れぬ木に登って、まだ青いその実を獲った。
道端に生えている雑草まで口にして、あまりの不味さに戻してしまった。
川は降り続く雨に増水し、茶色く濁った水が渦を巻いていて、魚の影どころか河原さえ見えない有様だった。
とうとう、留守の家に恐る恐る入り込んで、鍋の蓋を取ってみた。
でも、中身は空っぽだった。
どんどん痩せて、弱っていくのが、自分でも手に取るようにわかって、恐ろしかった。
死に物狂いで武衛陣から逃げ出したものの、このままでは遠からず、飢え死にするのは目に見えていた。
雨にじっとり濡れそぼり、木立の陰に隠れて、空き腹を抱え、まんじりともせず夜を明かした。
どんなに汚れても、着物を代えることも、風呂に入ることも出来ない。
最初は、自分でも耐えられない程の体臭に悩まされた。でも食物とよべる物も食べられない暮らしに、獣臭い体臭は次第に籠って饐えた臭いに変わっていった。自分が段々、内部から腐っていっているようだった。
身体中にぶつぶつと吹き出物が湧いた。一日中、耐え切れぬ痒みに悩まされた。
着物の襟を返すと、虱の卵が白く列を作っているのを目にして愕然とした。夜、人目を忍んで井戸端で着物を脱ぎ、取り付かれたように水を浴び、千切れるほど着物を洗った。
いっそあの時、死んでしまえば良かったかもしれない、という思いがちらついて、どうしようもなかった。
街はざわついていて、仕事も無かった。
武衛陣でこき使われて、ひどい暮らしだと思ったこともあったけれど今、この暮らしに比べれば。
自分が如何に守られていたか、思い知らされた。
以前は、道端にうずくまる乞食の子供たちを、居て当たり前の風景みたいに思って、目を留めることも無かった。
今では自分もその一員だ。
夜、軒下で眠っていると、猫か何かのように水を浴びせられて追い払われた。
とぼとぼと歩いていると、何もしていないのに邪険に突き飛ばされた。
世界中が敵だった。
空腹に耐えられなくて、市に立つ物売りが客に気を取られている隙に、篭に入った饅頭へつい、手が伸びた。
指が饅頭に届くかと思った瞬間、別の手が伸びて、それを掻っ攫っていった。
痩せて小さな、紅より幼い男の子だった。
でもその後を屈強な男たちが、まるで狩りを楽しむかのように追いかけて捕まえた。
「とうとう捕まえた。こいつ、いっつも盗ってくんだ。今日という今日は許さねえ!」
赦してよう、と叫んでいるその子を殴ったり蹴ったりした挙句、その辺にあった筵で簀巻きにして、川まで運んで放り込んだ。
茶色く濁って増水した川に、筵があっという間に流されていくのを、紅が呆然と見送っていると、男たちが彼女に気づいた。こちらへ来ようとするので、自分でも何処にそんな力があったか、と思う速さで逃げた。
裏切りには寛容な社会だった。
忠誠を誓うその舌の根も乾かぬうち、信義は破られ、約束を違えても何の咎め立ても無く、反省を口にし、謝りさえすればすぐ赦してもらえる世の中であった。
日本の社会は今も変わっていないかもしれない、政治的失敗の責任を、いつだって誰も取らないように。
だが当時、日本を訪れた宣教師が驚愕していたように、盗みには大変厳しい国だった。『一銭斬り』という言葉もあるくらいで、罪はしばしば、命を持って贖わねばならなかった。
もちろん紅も時代の子である以上、社会の慣習は良くわかっていた。そうはいっても、自分の胃を苛む痛みは、あの子の味わった痛みと同じと思うと、世の決まり事全てに盲目的に従うのが果たして正しいことなのか、疑問は涌いて止まなかった。
でも彼女は無力だった。暴力に対して出来ることといったら、指を銜えてたたずむことだけだった。
それでも、濁流に浮き沈みする筵は、暫く彼女の脳裏から離れなかった。