第32話 炎上
部屋の外に出ると、表の方から、刃物を打ち合う音や叫び声が聞こえてきた。
(何か燃えている)
鼻をつく匂いがして、喉がいがらっぽくなった。
邸に火が掛けられたのだ。
いよいよ最後のときが迫っている。
皆の一番後から部屋を出ようとして、紅は振り返った。
義輝は全ての刀を鞘から出すと、畳に順々に突き刺して、ぐるりと半円を描いていた。
如何な名刀といえども、数人も斬れば脂が巻いて使い物にならなくなる。惜しげもなく刀を換えながら、戦わなくてはならない。実戦を知っている男らしい、実用的な刀の使い方だった。
自ら戦うのは将軍らしからぬこと、と謗る人もいるだろう。でもある意味、武家の頭として最もあるべき姿ではないのかと、彼女は感じたのである。
それが、公方を見た最後となった。
奥では、娘二人を抱えた御台所の周りに、侍女たちが一塊になっていた。
御台所の御いちゃの局は、人々が、公家のお姫さまならこういう人物であろう、と想像するとおりの女である。
前久を見ると、ほっとしたような顔をした。
「お姑さまが居はらしまへんのや。」
訴えた。
「麿がお迎えに参じます。」
前久は紅に言った。
「そちは邸の間取りに詳しいやろ。案内したってや。」
幾つもの部屋を通り抜けていった。
慶寿院の居そうなところを一つ一つ当たっていったが、何処にもその姿は見当たらない。
奥まで煙が届いていた。
程なく、燃える火を目にすることになった。
思いがけなく、かなりの範囲まで火が回っていた。
誰かが逃げる際に、火を掛けたのだ。
火元は実は、表ではなく奥だった。
前久と紅は口元を袖で覆って、更に進んだ。
火勢は益々強い。
あきらめかけたとき、前久が声を上げた。
「叔母上!」
煙の向こうに人影が見える。
立ってこちらを見ているのは、確かに慶寿院だった。
手には火のついた薪を握っている。
(放火したのは彼女だったのだ)
責任を取らねばならぬ。
自分の首を差し出すことも又、あるであろう。
彼女の言葉が思い浮かんだ。
「叔母上!何なさっとるんや!そこは危ない!早よ、こっちへ来なされ!」
笑った、ようだった。
前久が慶寿院の元へ走った。
紅も後に続こうとした。
その時、梁が落ちた。
目の前に火のついた材木が次々と降ってきて、彼女の進路を塞いだ。
慶寿院と前久の姿は見えなくなった。
大きな柱が倒れかかってくるのが目に入った。
立ちすくんだ。
着物の襟首をぐいっと摑まれ、後ろに引っ張られた。
その直後、彼女が今まで居たところに柱が倒れ、火の粉が舞った。
「何、ぼけっとしとんのじゃっ!」
聞き覚えある声が言った。
「何でっ?」
紅は叫んだ。
「読まなかったんですかっ、手紙?」
行く手は火の海だ。
仕方無い。
気がかりだったが、慶寿院は前久に任せることにした。
踵を返して走り出した。
「この、下っ手くそな狂歌かっ!」
信虎も走りながら、懐紙を見せた。
都より 甲斐の国へは 程遠し
御急ぎあれや 日もたけたどの
中身は知らなかった。
「要するに」
さっと目を通して言った。
「日も長けた、と武田を掛けているんでしょ、ってことは早く逃げろってことじゃないですか、意味、わかんなかったんですかっ?後、それ書いたの、あたしじゃありません、上さまですっ!」
「ええ、うるさい!」
信虎は怒鳴った。
「黙れ、たわけっ!退却の途中、寄ったんじゃい!有難いと思えっ!」
煙の中に人影が現れた。
三好の手勢だ。
四・五人、まだこちらに気づいていない。
信虎は走りながら刀を抜いた。
襲い掛かった。
たちどころに三人、斬って捨てた。
(慣れている)
さすが甲斐で鳴らした猛将だ、と思った。
自分も刀を抜いた。
先ほど賜った『藤四郎』である。
信虎に背後から斬ってかかろうとしている侍の懐に、思い切って飛び込んだ。
顎の下目掛けて刀を突き刺した。
たちまち上がる血飛沫を避けて、飛んで離れた。
その間に信虎は残りの一人を片付けた。
「良い刀じゃな。」
目ざとく見た。
「公方さまから山内に、と賜りました。」
血を懐紙で拭って仕舞った。
使ってしまった。
敵の首に刃が届いた途端、その身体の中にするすると
(吸い込まれた)
まるで自分で意思があるように、
(走った)
さすが名刀と言われるだけある。
凄まじい切れ味だった。
後で念入りに手入れをしなくちゃ。これはお屋形さまにお渡しする公方さまからの預かり物だもの。
初めて人を殺した。
でも武家の一員として生きる以上、いつかはこういう日が来ると思っていた。
案外、平静な自分がいる。
いや、今はただ、興奮していて何も感じないのかもしれない。こういうのは後から来るんだろう、きっと夜、独りで床につく頃に。
「思い切った戦ぶりじゃ。」
「それも、公方さまに。」
義輝はひととおり剣術を教えてくれたが、結局そちは女子だから、と言った。
「女子は非力だ、詮無いことよ。」
どうしても戦わねばならなくなったら、短刀を呑んで敵の懐に飛び込め。
常に相打ちを覚悟せよ。
我、傷つかず相手を仕留めるなぞ、虫のいいことを考えるな。
一撃必殺を常に念じよ。
乱暴、だが。
(一理ある)
「だから、戦う前に常に、戦わずに済ませる方法を考えよ。謀略、欺瞞、策略。味方を作る、あるいは逃げる、何でも良い。綺麗ごとは力ある者のみが言えること。弱者はしがみつき、這い蹲り、あらゆる手を使って生き延びる方策を練るのだ。」
公方さまは、と、今更ながら胸が熱くなった。
あたしにとって第二のお屋形さまだった。
倒した敵から刀を奪って、腰に挿した。
庭に出た。
紅は言った。
「御台所さまをお守りしている者たちと、ここで合流することになっております。能舞台の裏に秘密の抜け穴があるのです。」
頭を下げた。
「御恩は一生忘れませぬ。」
「ふん、後始末に来ただけじゃ。」
嘯いた。
「計略の証拠が残っておらぬかと見に来たが、この分では邸と共に焼け落ちてしまうじゃろう。やれやれ、又、しくじってしもうたわい。三好に代わって、甲斐・武田が都を牛耳る絶好の機会じゃったのに。」
普段付けているお面がぱかっと外れて、彼の『混沌』が姿を現した、気がした。
(この人はいったい)
紅は呆れた。
自分の娘が嫁いだ先の、駿河の今川家を乗っ取ろうという計画を立てて、失敗したことがあったんだっけ。
きっとこの人が、公方さまや慶寿院さまを焚き付けたんだわ。
「根っから揉め事がお好きなんですね。」
嘆息した。
「人聞きの悪いことを言うな。」
むっとした。
「謀、と言え。」
「陸奥守さまも抜け穴をお通りになりますか?」
「わしのことは構うな。堂々と表から出て行く。」
「そんな、危険です……。」
「何、あんなへなちょこ共、武田にたてつく度胸なんぞありはしないわい。逆らうならいっそ、成敗する口実が出来て、好都合というものじゃい。」
気味悪く笑った。
事あれかし、と舌なめずりして待ち構えているのはどうやら、この男の方のようである。
危険を棲み処として、戦を糧に生きている。
引退したのも出家したのも、なるほど格好ばかりのようだった。