第29話 多聞天
鞠を先頭に、更に奥へと進んだ。
やがて、一番奥の部屋に行き着いた。
金色の真鋳の、凝った飾りのついた重々しい扉の前で、一行は立ち止まった。
香りは益々強くなっていく。
「すごい香りだな。」
糸千代丸も同じことを思っていたらしい。
「何処もかしこも出来たてなんだな。」
岩千代丸が言った。
「違うわ。」
紅が言った。
「これは香を焚いているのよ。」
「天井の造りといい」
糸千代丸が格天井を見上げた。
格式の高い寺院に見るような天井である。
「この屋敷全体が仏殿みたいだ。」
鞠が部屋の扉を開いた。
そこに鎮座する物を見て、皆、息を呑んだ。
鞠が翳す灯に浮かぶそれは、人の背丈の三倍はあろうかと思われる巨大な仏像だった。
甲冑を着け、片手に宝塔、もう片方の手には鉾を持っている。とろりとした朱漆がたっぷりと塗られている。踏みつけられている悪鬼は何処か愛嬌のある顔を、情けなさそうにこちらに向けている。
北方を守る仏教守護の神将・多聞天、又の名を毘沙門天という。
「この像に因んでここは、多聞城と呼ばれているのです。」
鞠は手燭を高く掲げて、仏像の裏に回りこんだ。像の背面を暫く探っていたが、力を入れて押し始めた。
開かない。
男たちが力を貸した。
ギーッと音がして、向こう側に向かって、隠された扉が開いた。
狭い階段が下へと続いている。
下っていった。
長い廊下に出た。
どうやら山の斜面に建てられた、別棟のようである。
「ここから先は、限られた者しか行けないのです。」
鞠が言った。
香りは益々強くなっていく。
鞠が突然、立ち止まった。
合図する。
皆、急いで傍らの部屋に身を隠した。
細めに開けた襖から覗くと、見回りだろう、薙刀を構えた侍女の一団が通っていく。
やり過ごして又、奥に進んだ。
廊下の、一番奥の部屋にたどりついた。
部屋の中にぼんやりと灯が灯っているのが、障子越しに見える。
鞠は身を引いて、義輝に道を空けた。
「この部屋と思われます。」
「暫く。」
糸千代丸と岩千代丸が、刀の柄に手を掛けた。
紅が襖に手を掛けて、一気に開けた。
少年たちが部屋に飛び込んだ。
義輝も殆ど同時に踏み込んだ。
その後に前久と紅と鞠が続いた。
香がうわっと押し寄せてきて、皆を包んだ。
だがその中に、吐き気を催すような妙な匂いが混じっていることに、全員が同時に気づいていた。
上段下段に別れた大きな部屋の、上段の間のほうに夜具が敷かれていて、誰か寝ている。
柔らかな橙色の灯が床を照らしている。
その枕元に、凝然と座っている人影があった。
垂れていた頭をゆっくりと巡らした。
「霜台……。」
義輝が呟いた。
松永弾正久秀だった。
「誰か使いをお寄越しになるとは思っておりましたが」
驚いた様子も無く、頭を下げた。
「ご自身でおいでとは。でも、直にご挨拶が出来ます。」
床に向かって話しかけた。
「さぞ、お喜びでございましょう。お屋形さま、上さま直々にお出ましでございますよ。」
義輝は、つかつかと部屋を横切って枕元に立った。
はっと息を呑んだ。
後ろから覗き込んだ前久が、ぐっと言って口元を袖で覆った。
鞠が悲鳴を上げて、紅の胸に顔を伏せた。
中肉中背の男が夜具に横たわっている。
息絶えてもう、どれくらいになるのか。
皮膚は黒ずみ、かさかさに乾いて、骨格に張り付いている。
目は落ち窪んで、ぽっかりと穴が空いている。
「修理太夫……。」
義輝が呟いた。
「何故、知らせなかった。」
「三年、喪を秘せ、と仰せでした。」
久秀がゆっくりと言った。
「だから私がこの城にお連れして、密かに匿って差し上げていたのです。」
しみじみと懐かしむような口調だった。
「もの静かなお方でした。唐物をどれだけ集めたか競い合う茶の湯より、自分の内面を見つめ、一座の者と慶びを分かち合う連歌の方がお好きでした。連歌の座のときなど、膝の傍らに扇を置き、ひどく暑いときは、静かに右の手で扇を取り上げ、左の手を添えて扇の折り目を三つか四つ開き、音のせぬよう使っていらっしゃいました。又、左の手を添えて畳み寄せて、元の所にお置きになるとき、その置いた場所は畳の目ひとつも違っていらっしゃいませんでした。この城は、そんな几帳面なお屋形さまが心安らかに、ゆっくり静かにおやすみになれるように改築したのです。でも時がたつのは無情なものです。どれだけ注意を払っても、遺体が損なわれてしまうのはどうしようもないことです。それもこれも皆、上さまの御為です。」
義輝を下から睨みつけた。
「こんなことまでしなければならないいわれなぞ、無かったのに、それもあなたさまの御為に、なぞ。」
恨みがましい口調で言い切った。
「修理太夫さまがどんなに上さまのことを思っていらしたか、到底おわかりにはなりますまい。」
三好長慶は弱冠十歳で父を、主君である管領・細川晴元に討たれた。しかし十二歳で、晴元が制御できなかった一向宗及び法華宗を統制して、主君と和睦させるのに成功した。
その後は、あっという間に勢力を回復し、晴元と対立し、晴元を支援する義輝の父と義輝を共に近江に追い、都に三好政権を樹立した。
「お屋形さまは都を手にしていらっしゃいました。上さまがおいでにならなくても、三好だけでやっていけたのです。でも、将軍のおいでにならない政権は認められない、と御自分の権力を手放して、上さまに戻ってきていただいたのです。あなたさまに命を狙われた後も。それも、二度も。」
義輝の側近は二度、長慶の暗殺を企てた。
長慶は辛くも難を逃れた。
「天文二十一年に御供衆になったときなぞ、御供衆なんて、たかが馬回りではありませんか、それなのに大喜びで、弟さま方とお祝いなさったのですよ。参内したって御廂のさし筵まで行けるくらいの地位なのに。」
長慶はその後も、細川晴元と対立してさんざん悩まされたが、人質に取ったその長男を大事に育て、元服させてやった。晴元が破った和議の条件を、彼の方は律儀に守った結果であった。
「管領以上の実力がありながら、自分が管領になるという発想が出てこないお方でしたから、御相伴衆におなりのときも、望外の喜びだとおっしゃって、将軍家に太刀と二万疋をお贈りになりました。官位も従四位下、修理太夫で満足なさっておいででした。」
霜台は俯いた。
泣いているのだろうか。
「六十年前に大心院{細川政元}さまが、三十年前に道永{細川高国}さまが、時の公方さまを追われたのに比べ、お屋形さまはお二人以上の実力をお持ちだったのに、そうなさいませんでした。それはお屋形さまが、伝統は守らなくてはならないという信念の持ち主でいらしたからです。家中でも軟弱だと批判なさる方もおいででしたが、お屋形さまは御自分の命を掛けて、誓いをお守りになりました。戦というと公方さまと対立しなくてはならないのに悩んで、とうとう心を病んでしまわれました。死を覚悟なさったとき、私に仰せになりました。自分が死ねば、上さまを弑し奉ろうという者が必ず現れるであろう、だから情勢が落ち着くまで、自分の死を伏せよ、と。でも」
自嘲した。
「もう無理です。私にはどうしようもなかった。自分の息子さえ、抑えることが出来ませんでした。お終いです、全て。」
「どういう意味だ。」
義輝が顔色を変えた。
兵たちが何処へ向かったか、そこに居た全ての人の脳裏に答えが浮かんだ、それでも聞かずにはいられなかった。
「昼間、息子{松永久通}が軍勢を率いて都を目指しました。左京太夫{三好義継}さまを担いだ日向守{三好長逸}さま、下野守{三好政康}さま、主税助{岩成友通}も御一緒です。お屋形さま亡き今、上さまには御引退いただき、代わりに傀儡の公方として阿州公方{足利義栄・義輝の従兄弟}さまに立っていただこうとしているのです。」
久秀は、義輝の袴の裾を掴んで叫んだ。
「何故、もっと修理太夫さまをお認めいただけなかった。あなたさまと折り合いが悪いのを苦になさって、あたら寿命を縮めてしまわれた。身分の低い陪臣ではあったが、公儀に対する忠誠心は人一倍おありだった。それもこれも、修理太夫さまの父上を邪魔者扱いにした管領の細川さまと、そんな管領に組した上さまご自身のせいだ!」
この男も、と紅は思った。
上さまが好きなのだ。
生まれついての身分が全ての社会において。
低い身分、でも有能なゆえに与えられた、それに見合わぬ栄光。
自身が属する三好家と、高貴な血筋である憧れの上さまの間で、引き裂かれる思いだった。
今、言ったことは、修理太夫の気持ちであると同時にそのまま、この男自身の気持ちでもあるのだ。
義輝は、久秀を見下ろした。
「個人としては、修理太夫の気持ちがわからなかったわけではない。だから、最初から対立する存在として現れなかったあの者の嫡子である孫次郎{三好義興}との関係は良くしようと努めていた。実際、孫次郎は賢く優秀であった。自分の役割をよく理解し、上手に振舞っておった。それを見て修理太夫も喜んでいた。しかし孫次郎は、若くして突然亡くなってしまった。修理太夫も残念がっていたが、余も、真に残念であった。三好と我が家を繋ぐ鍵となる男だったからな。今となっては嘆いても詮無いことだ。余は将軍だ。個人である以前に、将軍としての責務は果たさねばならぬ。幕府の障害となるものは排除せざるを得ない。例えこの手に動かす兵が無くとも、余は決して妥協することは無い。この命を失うとも、謀反人どもの足下に屈することは無いであろう。」
霜台は手を放した。
「阿州公方さまのことは、修理太夫さまもお認めにならないでしょう。私は、亡き主ならこうなさったであろうと思われることを致します。上さまの実の弟御の周暠さま、覚慶さまは、私が保護いたします。」
「行くぞ。」
義輝は皆に言うと、踵を返した。
霜台は俯いて又、主に語りかけている。
「父上。」
鞠が声を掛けたが、娘の姿も目に入っていないようだった。
「鞠さま、行きましょう。」
紅がその肩に手を掛けた。
鞠は振り返りながら、部屋を出た。
急いで厩に駆けつけた。
見張りの兵を倒して、馬にまたがった。
「私もお供します。」
鞠が言うので紅が止めた。
「鞠さまはいらしてはいけません。何が起きるかわかりません。」
「兄が居ます。」
鞠が言った。
「説得出来るのは私だけでしょう。」
馬を駆って、門から外へ飛び出した。
後から兵が追いかけようとするのを、奥から姿を現した霜台が声をかけた。
「放っておけ。」
「し、しかし」
家臣に言った。
「あの者たちが死ぬのは、ここではない。武士の情けだ、行かせてやれ。」
朝の光の中、奈良の街を見下ろした。
「今宵は都がよう燃えるじゃろう。」
独りごちた。