第1話 初恋
雨上がりのぬかるみに押し倒されて、
「こいつ、へ理屈ばっかりこねて!」
足でぐいぐいと頭を踏みにじられた。
「へ理屈なんかじゃないっ!」
泥水が口の中に入ってくる。
「道理を言っているんだ!」
頬が砂利で擦れる。
「生意気なんだよ、チビのくせして。」
ぐりぐりと、もう一方の頬を踵で踏みにじる。
「女みたいな顔、してるくせに。」
よし、もう少し。
「何されても、絶対泣かねえんだ。」
何本もの足が、身体を蹴ってくる。
でも、我慢だ。
土が口の中に入る。
(よし、今だ!)
踵に噛み付いた。
ギャアッと悲鳴が上がった。
周囲がひるむ隙に、身を起こして立ち上がった。
噛み付かれた奴は、さっきの勢いは何処へやら、大きな声を上げて泣いている。
(ざまあみろ)
思ったのもつかの間、別の奴の拳が飛んできて、鼻っ柱に命中した。
目の前に文字通り、火花が散った。
吹っ飛ばされて、畦道に思いっきり頭をぶつける、と思った、が、ふわっと軟らかい物が彼の身体を受け止めた。
いい香りが漂った。
温かく軟らかいものは、誰かの膝だった。
泥だらけの彼の頭を袖で庇って、載せてくれている。
「駄目でしょ、あんたたち。」
彼を受け止めてくれた優しい塊が何か言っているのを、夢見心地で聞いた。
「女の子、いじめちゃ。」
途端に我に返った。
「オンナじゃないやいっ!」
周りがギャハハハッと大笑いするのを、
「うるさいやいっ!」
真っ赤になって、怒鳴った。
「謝れっ!俺はオトコだっ!」
「あらあら。」
ふさふさした艶やかな黒髪が、彼の顔を覆って影を作った。
眉の少し上で綺麗に切り揃えた前髪、その下には、しなやかな長いまつ毛に縁取られた切れ長の、大きくて真っ黒な瞳が、悪戯っぽく輝いている。細い真っ直ぐな鼻筋、珊瑚の色した赤い唇から、綺麗にそろった真っ白な歯が見える。
目が合った。
「ほんとだ。こりゃ失礼。悪かったわね。」
「あっ!」
(天女さまだ)
子供だから、その人の美しさをどう表現していいかわからなかった。
もっとも相手もまだ子供だった。
彼より三つくらい上の、でも大人びた感じのする女の子だった。少し日に焼けて、健康そうな艶々した肌をしている。河原撫子の花を散らした綺麗な着物を身に着けているが、裾は軽快に端折っている。
山から吹きおろしてくる夏の風に吹かれて、梅雨の晴れ間の青空の下、こんな山里に如何にも場違いな、町育ちらしい美少女は、周りの物珍しげな視線を気にも留めずに笑っている。
いきなり膝を引いたので、彼の頭はすとん、と地面に落ちた。
彼女は立ち上がった。
「一人を、大勢で殴ったり蹴ったりするのは良くないと思わない?」
いいとこの娘のようだが、供も連れず、たった一人だ。
「だってコイツ、生意気なんだもん。」
「へ理屈ばっか、こいてよォ。」
「何を!」
又、殴りかかろうとするので、女の子が肩を掴んで止めた。
「あなたも懲りないわねえ。まだやる気?殴り合いでは負けたんでしょ。他のことで決着つけたら?」
「よォし。」
皆が口々に叫んだ。
「水練だ、水練、どうだ!」
彼が黙ってしまったので、女の子は顔を覗き込んだ。
唇を固く引き結んでいる。小さい声で言った。
「俺、泳げねえ。」
「じゃ、あたしが代わりに泳ぐ。」
女の子は、こともなげに言った。
「代役、いい?」
皆に尋ねた。
誰も女なんか上手く泳げるとは思っていない。
「いいよ、構わねえよ。」
口々に言う。
彼女はもう一度、今度は彼に尋ねた。
「ね、いいでしょ?」
「……。」
「あたしが泳ぎたいの。」
耳元に口を寄せて囁いた。
「大丈夫。あいつら、負かしたげる。」
彼の頭を、くしゃくしゃっと撫でた。彼女のほうが少し背が高い。
川べりにやってきた。
「あの大岩から飛び込むんだ。」
大きな岩が川にせり出していて、その下は渦を巻く深緑色の淵になっている。
「川の中州に早くたどりついた奴が勝ち。」
大きな男の子たちが五人、名乗り出た。
彼女はその中に混じった。一番小さく、一番幼く見える。
皆、着物を脱ぎ捨てた。
彼女も思い切りよく着物を脱ぐと、手早く丸めて、ぱっと彼に放った。
「持ってて!」
弾けるような笑顔を見せた。
湯文字ひとつの伸びやかな白い裸身が、陽の光に輝いている。
合図で一斉に飛び込んだ。
皆すぐ浮かんできて中洲に向かって泳ぎだしたが、彼女だけ上がってこない。
彼女の着物を抱きしめて、おそるおそる淵を覗き込んだ。
越後の山懐に深く抱かれて、昨日降った大雨を集めた川の流れは速い。急流が崖を削って、淵を泡立たせている。遥か下、緑の渦が、ぐるぐると川藻を底に引き込んでいる。
(死んじまったのか?)
不安で胸が押しつぶされそうだ。
「おーい!」
中洲のほうから呼ぶ声がする。
彼女だ。
いつの間にか誰よりも一番早く中洲にたどりついて、手を振っている。
伸び上がって手を振り返した。
「溺れちまったかと思った。」
戻ってきた彼女に着物を差し出すと、髪を絞りながら手早く身に着けた。如何にも慣れているといった風情だ。
「渦を巻いていたから、流れが速いと思って、底を泳いでいったの。底は流れが穏やかだから、その方が早いだろうって。思ったとおりだったわ。」
笑って彼の頭を撫でた。
皆に大きく手を振って、別れの挨拶をした。
「もう弱い者いじめするんじゃないよう!」
「弱かねえ!」
拳を振り上げたが、手を振りながら去っていった。