第26話 狂歌
人使いは荒いが、小侍従に命じられる仕事が決して、行き当たりばったりで無いことが、だんだん紅にもわかってきた。
この邸は、例えてみれば巨大な龍のようなもので、頭があり手足がありといった様々な部分で成り立っていることが、仕事をしているうちに、紅のような小娘にも見えてきた。いや、見えるように段階を踏みながら、小侍従が彼女に仕事をさせていることが、わかってきた。
武士の家が、どういう仕組みで成り立っているのか、
(教えこまれている)
ただ単にこき使われているだけではないことが、彼女の仕事の励みになっている。
琵琶島の城が、まだあったなら。
彼女が城の主になったとき、役に立ったろうに。
(ううん、城が無くても)
ここで使われていく上で、いやもし、ここを追い出されたとしても、よその武家屋敷で雇われて働くうえでも、役に立ちそうなことであった。誠実に働いていれば、何処へ行っても侍女、それも老女の地位も狙えるようなトップクラスの侍女が務まりそうであった。彼女のような、何の寄る辺も無い者にとって、強力な武器になる。
有難いことであった。
そればかりか、学問もしている。
正確には、摂津糸千代丸と大館岩千代丸が、武衛陣に出入りしている僧に教えを受けているのを、傍らで拝聴させられている。
まだ若い彼らが、書物を読んだり、武将としての心得を学んだりしているのを聞いているのだが、ずっと立ちっぱなしで仕事していて、座れるのはその日その時が初めてだったりする。あまりにも疲れが溜まっていて、瞬きしたつもりがそのまま瞼がくっついて離れず、つい舟を漕いでしまうので、糸千代丸にさりげなくつねられて、飛び起きるのを繰り返している。
祖父が学者だったので、琵琶島に居た頃、おおかたの女よりも教育は受けたつもりだったが、家を無くし、故郷を追われ、全てを失った今、それでも曲がりなりにも書を読む生活を、公方の邸で再び送れるのは、しみじみと懐かしく、ちょっぴり哀しい気持ちにさせられた。
いずれにせよ、普通の女の童の生活には無いことで、小侍従の考えが何処にあるのかを、改めて考えさせられた。
夜、公方と遠乗りするので、街の地理は、だいたい頭に入っている。
小侍従のことだ。
公方が紅を連れまわしていることも、とっくに知っているに違いなかった。でも知らん振りしている。
もう都には慣れた、と紅は思っているが、昼間、外に出ることは許されない。不思議に思っていたが、とうとう使いに出されることになった。
だが一人ではない。
摂津糸千代丸が供を仰せつかった。
当然、彼はむくれている。
何で、女の童なんぞの護衛に、奉公衆の自分が付かなきゃならない。
「逆だろう、普通。」
ぶつぶつ言っていると、鞠が目ざとく見つけて飛んできた。私も、私も、と自分の供は追い返して、二人に付いて来ようとする。
仕方なく、大館岩千代丸も呼んできた。
小者を一人、供に連れただけで、子供ばかり四人で、出かけることになった。
使いの先は菊亭家、近衛家が属する摂家に次ぐ家格である清華家の一つで、今出川家ともいう。御所の西方、中立売御門にある屋敷に向かう。
「菊亭家には陸奥守の御息女が嫁がれたんだ。」
岩千代丸が、のんびりと話し始めた。
「その際、ちょっとした事件があって、こんな狂歌が作られた。」
婿入りを まだせぬ先の 舅入り
聞く態{菊亭}よりは
猛けた{武田}入道
「どういう意味ですか?」
紅が聞くと、
「婚約が決まっただけなのに、約束も無しに訪問したから、相手がびっくりしたんだそうだ。呼ばれもしないのに押しかけるなんて、清和源氏、清和源氏って鼻高々だけど、既に貴族の感覚じゃないよね。」
「気ままなお人ですねえ。」
鞠は、自分のことは棚に上げて言った。
「でもその歌って、上辺だけの意味じゃないらしい。」
糸千代丸が割って入った。
「じゃ、本当の意味は?」
紅が尋ねると、
「知らない。」
あっさり言った。
「それは陸奥守さまと菊亭家、当事者同士しかわからない。符牒みたいなもんだ。」
「陸奥守さまって」
岩千代丸が言った。
「よく武衛陣においでだよね。」
「在京守護って、近頃珍しいのに。」
糸千代丸が応じた。
在京守護というが元来、守護は都にあるべきなのである。皆、戦火に追われ、食えなくなって地方に下ったのだ。ちなみに守護が在京していて不在だから、地方は守護代が見ていた、のである。
「駿河の今川家は、以前は幕府への上納を千疋{十貫文}ほど送ってきていたけど、近年は書状さえ寄越さない。」
「北条家は、ずっと前、千疋ほど送ってきていたようだが、近年は馬代すら送られて来ない。」
「伊達家は書状すら送って来ない。」
「御子息の奥方は三条家の姫君だし、甲斐武田家は、都との繋がりが東国の他の大名より強いよね。」
糸千代丸は紅を見て、つけ加えた。
「山内殿を除いては。」
ほんとに、と思った。
陸奥守さまは何故、度々武衛陣においでなのだろう。
よく公方さまと内密のお話をなさっている。
高野山や奈良へ遊覧に出かけ、公家たちと交流し、一見優雅な隠居生活、だがあの喰えない男が果たして、それだけで満足しているんだろうか。そこには隠された何かがあるんだろうか、当事者以外にはわからないような。
無事届け物を済ませ、菊亭家からの帰り道、事件が起こった。
そもそも鞠が、市場に寄ってみたい、と言い出したのだ。
後から何度も思い返しては、あのとき止めれば良かった、と紅は悔やんだが、その時は彼女も、久々に昼間、街中を、子供ばかりで歩ける開放感に浸っていたので、否とは言えなかったのである。
市場は混み合っていた。忙しく行き交う人々は明るい表情で、皆、楽しそうだ。
吹く風はまだ冷たいけれど、花売りはほころび始めた桃の枝を売り、魚屋は腹に卵を一杯持った諸子や烏貝を棚に並べ、道に置かれた木製の箱の生簀には、珍しい魚や蛸が泳いでいる。
異国から渡ってきた、色取り取りの珍しい布を広げる小間物屋は、百足の暖簾を掲げている。何故百足かというと、足が多いから御足{銭}が儲かるという、一種の洒落である。
鞠ははしゃいで、あちらへふらり、こちらへふらりと店を見て回った。
そのうち、侍に突き当たってしまった。
「何じゃ、娘。謝れ!」
偉そうに言う。
「三好の家中の者に向かって!」
相手は数人、昼間からちょいと、きこし召しているらしい。
鞠は大人しく謝ったが、しつこく絡んでくる。たまりかねて言った。
「身を誰じゃと心得る。松永霜台の娘であるぞ。無礼であろう。」
「何を言う、このあまっ子め。」
阿波か讃岐から、出て来たばかりなのだろう、鞠が松永の姫であることを知らないらしい。
糸千代丸が我慢できなくなって、前に出た。
ところが相手は、糸千代丸の顔を知っていたようで、
「公方の所の者であろう。」
「華奢な若衆を集めて夜毎、お楽しみだそうじゃな。」
「こいつもどうせ御寵愛を受けているのであろう。」
「尻で御奉公とは良い御身分じゃな。」
糸千代丸は刀に手を掛けた。
岩千代丸が必死に止めた。
糸千代丸は刀の柄から手を放すと、素手で殴りかかった。
相手は待っていたようだった。
二人に襲い掛かった。
紅は辺りを見回した。
農家の者だろう、馬を売っている。
「この馬、頂戴!」
何かあったときのために、と小侍従から持たされた、ありったけの銭を投げつけると、藁で編んだ手綱を取って、裸のままの馬に飛び乗った。
声を掛けると、馬を駆って、乱闘の場の真ん中に乗り入れ、棹立ちさせた。
「おどき。踏み殺すよ!」
叫んだ。
田舎侍たちは仰天した。
口に泡を噛んでいる、まだ去勢していない気の荒そうな裸馬にまたがった切禿の美少女が、喧嘩の場にいきなり割り込んで来たのだ。
思わず引いた侍たちに、低い声で付け加えた。
「本気だよ。」
三好の家臣共は酔いも覚め、転がるように逃げ出した。
市の外れにあった井戸の傍で手当てをした。
糸千代丸は散々殴られていた。
岩千代丸が見てやっている。
紅に、
「今日のことは他言無用だ。小侍従さまにも言っちゃいけない。」
「ひょっとして」
岩千代丸の慣れた態度に、ふと思い当たった。
「こういう事って、よくあるの?」
「相手にしちゃいけない、と言われている。」
だから外に使いに出されなかったのだ。
「こいつ、負けず嫌いだからな。それでも普段は我慢するんだが。」
顎をしゃくった。
「今日は一緒だったから。」
鞠は目に一杯涙を溜めて、口元に手を当てて立ちすくんでいる。
「ごめんなさい。」
糸千代丸の肩に、おずおずと手を置いた。
その手を、彼は振り払った。
「これでわかったろう!」
怒鳴った。
「三好は俺たちの敵だ!」
鞠はわっと泣き出した。
駆け出した。
紅は慌てて追おうとした。
「放っておけ!」
糸千代丸が叫んだ。
紅は小者に、鞠の後を追うよう合図した。
小者は心得て走り出した。
「これで良かったんだ。もう俺たちには近寄るまい。」
糸千代丸は、自分に言い聞かせるように呟いた。
それから鞠は、糸千代丸にも紅にも近づかなくなった。遠くからこちらをじっと見ていて、目が合うと慌てて逃げ出す。
皆、自然と鞠の話題を出さなくなった。最初から何の関係も無かったように、忘れ去られていってしまった。