第25話 和泉式部
「こっち、来う。」
小さな声で誰かが呼んでいる、ような気がした。
昼下がり、ひっそりして人っ子一人いない奥の廊下を通っている。昨夜は大きな宴が催されたので、客人に供せられた足付の膳を、山のように積み上げて運んでいた。周りどころか、前も見えない。
気のせい、ということにした。
何しろ、首が回らない。
「こっちや、こっちを見よ。」
いらだって早口でしゃべっている。
だってこれ、下ろしたらもう、一人では持てないもん。
「気のせい、気のせい。」
自分に言い聞かせた。
「気のせいやないわ、止まれ。」
声の主が大声を出した。
仕方なく、止まった。
「それは、そこへ置け。そなたはこちへ。」
やっと首を捻じ曲げて、声のするほうを見た。
慶寿院が、文机に向かっている。そこかしこに書き物が散らばっている。どういうわけか、お付きの者がいない。
人目を憚るように手招きをしている。
仕方なく膳の山を廊下の隅に下ろした。
紅が近づくと、口に扇を当てて小声で言った。
「はい?」
聞こえない。
「○○○。」
「何でしょう?」
「下々でいう、む・か・え・ざ・け、のことじゃ。ああ、知らんのか。まだ九献をたしなまんものな。」
心底がっかりしたように言う。気を取り直して、
「九献を飲んだ翌日、すいいするために足して呑む九献のことや。何、ほんのちょっぴり、お猪口に一杯でよいのや。御清所へ行って、もろうてきとくれ。」
「……。」
小侍従にきつく言われている。
あのひとにお酒を頼まれても、絶対あげちゃ駄目。うわばみ、なんだから。
慶寿院は、むっとした。
「ははあ、小侍従に義理立てしとるのやろ。どちらが上やと思うとるのや。」
「それはもちろん、慶寿院さまです。」
「ならば……」
「でも小侍従さまは、私に直接、命令を下す立場のお方です。私に御用でしたらまず、小侍従さまにお命じください。そして小侍従さまが」
「もうよい、わかった。小侍従に言い含められとるのであろ。」
うるさそうに手を振った。
紅が下がろうとすると又、手招きをする。
まだ用は済んでいないらしい。
「手は読むんか?」
「はい、少しでしたら。」
読んでみよ、と書き物を差し出された。
声に出して読んだ。
「ほう、真名も読めるか。」
「これ以上難しいと無理です。」
「これだけ読めれば十分や。」
眼鏡が壊れとってな、侍女どもも他の用があって出払っとるのや、と言う。
「眼鏡って、南蛮人が使っている……。」
京に出てきて、初めて見たときには、びっくりした。目が四つあるのかと思ったのである。
武衛陣には、南蛮人のバテレンも出入りしている。
「あの者たちに献上された。水晶を削って作った玉を通して見るんや。最近、目が遠くなっての。眼鏡のおかげで、良う見えとったんやが。あることに慣れてしもうと、無いと不便や。」
紅みたいな即席の公家の娘とは違い、関白・近衛尚通の娘という最高峰の公家の娘でありながら、新しい物も積極的に取り入れる。
バテレンたちは布教の許可を求めに来たのだが、きちんと話を聞いて、許可してやることを息子である義輝に進言したのも、この母だという。
「知っとるか?あの者どもは、一夫一婦制やそうな。何、わからんか?一人の亭主に、一人の女房しか認めんそうや。」
「へえ……。」
「夫ばっかり大勢の妻を持っていい、などという制度が妙や、と言う。考えてみればそうや。逆もあり、やろ。妻が、大勢の夫を持っても良かろう。」
「えっ?」
何言ってんの、この婆さん。
「昔は、そうやった。和泉式部なんぞ、大勢の男がおったぞ。」
「私には想像もつかないことです。」
紅は大人しく言った。
雲上人の考えることって、普通じゃない。
書き物を順々に読んでいった。
詩歌か何かと思ったが。
「ふうん、浄福寺に与えられた文書は、三好孫六郎{義継}が下知したと申すか。」
「はい、そう書いてございます。」
「妙やの。」
慶寿院は考え込んでいる。
「この手の書類は、修理太夫が自ら裁可致しとった。よほど病が進んでおるようやの。」
紅の顔を見て、
「不思議か、かような物を読んでいるのが。」
「あ、はい。」
素直に言った。
「女子は詩歌を読み、管弦を習い、刺繍などして過ごすものと思っておりました。」
「母上は、もっと色々なことをなさった。」
慶寿院は言った。
「興福寺の維摩会に、関白代理として出席なさったこともある。御相伴衆の推挙なども、なさっとられた。京兆家{管領・細川氏}との御交流も盛んであった、しかし……。」
黙ってしまったので、紅は聞いた。
「お亡くなりになられたのですか?」
「何の。当年とって八十四歳におなりやけど、矍鑠としとられる。」
あっさり言った。
「官途や領地争いの裁断など、おいやしたしいおるけど、まだまだやの。母上にはとても適わへん。」
紅が感心しているのを見て、言った。
「昨今、女子やからとて、押さえつけられることばっかりや。しかしかて、昔は女子が帝やったこともある。」
「今だって、女城主のお国もございましょう。」
「それは、主が亡くなって、世継ぎがまやおぼこいとき、中継ぎとなる者であろ。そないやなくて、最初から決まっとって位に就く者もおったのや。」
「へえ……。」
「紅。女子やからとて、あきらめるな。奥に篭って刺繍をしとるばっかりが、女子の道やあらへん。そんかわり、責任は取らんとあかん。わてん首を差し出すことも又、あるであろ。」
とてもそこまでの覚悟をもってやる仕事など、今の彼女には無かった。
膳は廊下の隅に積みあがったままである。
紅が何処かで油を売っていると思って、そろそろ誰か探しているかもしれない。
でも慶寿院は、なかなか離してくれない。
「竜文字が来ておったろ。」
「は?」
「やから……あれよ、細長い顔をして、似顔絵やったら、目と鼻と口が一文字で描けてしもう者よ。」
「ああ。」
関白殿下ですか、と言おうとして、危うく言葉を飲み込んだ。
「あれも情けない、あっという間に都に舞い戻って来おって。おまけに山内の機嫌を損ねてしもうて。公方や主上の力になってもらおうと思うて、期待しとったのに。」
どうやら前久の東国下向には、この烈女の関与が相当あったようである。
「殿下は誠実なお方です。御自分のお立場に前向きでいらっしゃいます。主{この場合は謙信}もきっと、そのことはわかっていると存じます。」
慶寿院は紅の顔をつくづく見て言った。
「そなたに話したのか。女の童なんぞに愚痴を言って、仕様もない奴やの。」
「……。」
女の童なんぞ、で悪かったですね。御自分だってたった今、あたしにお説教なさってたじゃないですか。
「あの」
そうだ、この人なら何か知っているかもしれない。
「私について、公方さまや小侍従さまは、何か仰っていらしたでしょうか。」
「何か、とは何や。」
「山内の、何だと。」
慶寿院は言った。
「預かり物やと。そうそう、粗略には扱うな、と。」
これで粗略に扱われていないんだったら。
(粗略に扱われていた日には、どうなっていたんだろう)
「今、申しとったことは他言無用や。特に御台所には言うてはならん。あれは、そなたの考えるような、奥に篭って刺繍をしているような典型的な女やからな。身体にも触る。」
御台所、御いちゃの方は、前久の姉である。
慶寿院や小侍従のような強烈な個性の持ち主の陰に霞んでいる、深窓の姫君といった風情の女性。しかも今、身重の身体である。
(姫君といっても、様々よね)
「さあ、用は済みや。行ってええ。」
慶寿院はさばさばと言った。
あの、お膳はどうなるんでしょう。
とても一遍には持てそうにない。
(あたしが持って立っている上に、残りを重ねてくださると有難いんだけど)
なんて、言えないし。
あきらめて立ち上がった。
二度に分けて運ぶしかない。
又、取りに来よう。
天下国家の片付けが義輝や慶寿院の仕事なら、彼女の仕事はとりあえず、膳の片付けなのであった。