第20話 糺の森
夜の水の中に、静かに身を沈めた。
(うー、寒っ)
水の中は、思ったより冷たかった。
公方さまの館は建って間もないので、池の水さえ新しい。見事な松や、まだ色づかぬ楓の枝が手を伸ばす水面は、底まで透き通って、昼間は魚影もはっきり見える。手ですくって飲んでみたいほどだ。
越後に居たときは、春から秋まで海で泳いでいたけれど。
(ここへ来てからというもの、泳いだことは無い)
そもそも休みをもらったことさえ無い。
朝から晩まで他人に追い使われるばかりの日々は、さすがに堪えた。
自由な時間が欲しかった。
今日も夜遅くまでこき使われた。
とうとう、ずっとやりたかったことを、思い切ってやってしまった。
夜中だから人っ子一人いないけれど、さすがに湯文字一つで公方さまの池で泳ぐのも憚られて、今日は襦袢も身につけて水に入った。
水の冷たさに慣れると、月明かりの下、泳ぎだした。
今宵は満月なので、水の中まで光が差し込んでいる。
公方さまの池はとても広く、思う存分手足を伸ばして泳いだ。
池の中央にある石に登って休んだ。
月を仰いだ。
泳いだのは、
(喜平二さまと海へ行ったとき以来だ)
楽しかったな。
子供時代の、最後の思い出。
(喜平二さま)
今頃どうなさっておいでだろう。
私はここにいます。
あなたを想って月を見ています。
あのまま何も無かったら。
今頃は二人で月を見ていたかもしれない。
切なかった。
鼻の奥がつんとして、もう上を向いていられなくなった。
何気なく館のほうへ視線をやった。
煌々と灯の点いている座敷が見えた。
(あれは、公方さまがいつも宴を催していらっしゃる部屋だ)
翌朝、片付けに駆り出されたことがあるから、知っている。
ずいぶんお酒を過ごしたらしく、落花狼藉といった有様だった。
でも、今宵も更けた。
灯が点いているものの、人気は無い。
(皆、やすんでしまったのだろう)
さて、もう一泳ぎしたら、あたしもやすもう。
水に潜ろうとしたその時、視野の端を何かが横切った。
黒い人影。
複数の。
はっとした。
見覚えがある。
(あいつらだ)
直感した。
物騒な世の中だ。
洛中では盗賊の群れが横行している。先だっては内裏へ押し入って、お局たちの着物を剥ぎ取ったという。
水音を立てないように岸に寄った。
濡れた衣類をさっと脱ぎ捨て、岩陰に隠してあった乾いた着物を素早く身に付けた。
着替えながら考えた。
人を呼ぼうか。
でも、この館は人手が無い。
特に夜は、女のほうが多いくらいだ。
下手に騒いで、却って困ったことにならないか。
隠れて様子を伺った。
三十人ばかりか。
皆、音を立てずに素早く動く。
厩のほうへ向かっている。
(押し込みかと思ったけど)
逆だ。
館の外に出て行く。
(それとも、一仕事終えた後、かしら)
公方さまたちはお酒を過ごして、盗賊たちに気が付かなかったのかしら。
公方さまがどうなっているか心配だったが、賊はどんどん行ってしまう。
決心した。
賊は厩から馬を引き出すと、手際よく鞍を置き、其々馬の背にまたがった。
厩番はどうしたんだろう。
誰も出てこない。
(馬泥棒、か)
後をつけてみよう。
とっさに決心すると、賊がある程度遠ざかったのを見計らって、自分も馬を引き出した。
門番の姿も無い。
賊は一塊になって邸を出て行く。
小さく声をかけて馬を走らせた。
人気の無い道を、馬の蹄の音だけが過ぎていく。
北に向かって、どんどん街から遠ざかっていく。
都に来てからずっと邸から出たことが無かったから、あまり地理には詳しく無いのだけれど。
きっと、ここは
(糺の森)
賀茂御祖神社{下賀茂神社}の境内に広がる、昼尚暗い原生林だ。
(ここに隠れ家があったとしたら)
とても見つけることは出来ないだろう。
森の中にぽっかりと空いた場所に出た。
先頭を走っていた者が合図をして、馬を止めた。
後ろに続いていた者たちが、ざっと二列に分かれて、同じように馬を止めた。
一斉に馬首を返した。
慌てて馬を止め、木の陰に隠れた、だが。
「飛んで火に入る夏の虫、とやら言うが」
首領らしき男が言った。
「出て来い。ついて来ているのはわかっている。」
月がこれだけ明るいと、誤魔化すこともできやしない。
仕方なく姿を現した。
懐には短刀しか無い。でも臆したと見られたくはなかった。
「世間を騒がす盗賊団とは、その方らのことか。恐れ多くも公方さまのお屋敷に忍び込むとは不届き千万。神妙に縛につけ。」
皆、暫く沈黙し、次の瞬間、どっと笑い出した。
「何を言い出すかと思ったら。そなた一人でこの大人数を虜にするつもりか。」
首領の傍らに馬を立てた者が言った。
「有象無象に用は無い。」
紅は、首領を真っ直ぐ見据えて言った。
「頭だけでよい。そちを捕まえれば、後は散り散りになるだろうから。それとも女子一人に大勢でかかるか?」
「面白い奴だな。」
首領は覆面の内で笑った。
「だが、どうしてもそなたと戦いたがっている者がおる。その者を余の代理と致そう。これへ。」
首領のすぐ脇にいた者が、馬を前に進めた。
ひらりと降りた。
紅も馬から降りた。
その周りをぐるりと騎馬の武者が囲んで、円陣となった。
誰かが細長い棒を投げた。
二人は其々受け取った。
相手も子供のようだ。
紅より少し背が高い。
身構えた。
出来る。
お互い思った。
次の瞬間、打ち合い、ぱっと飛び退った。
でもその後は、相手が、裂帛の気合で続けざまに攻撃を仕掛けてきた。
紅は押され気味になった。どんどん下がっていく。
(勝てる)
相手が思ったのが、わかった。
彼女が膝を付きそうになった。その左手が地面をすくって、小さい弧を描いた。
と次の瞬間、有利だった相手が顔を覆った。
砂飛礫を浴びたのだ。
「こいつっ、卑怯だぞ!」
彼女は棒を捨てると、素早く相手に飛び掛った。
馬乗りになると、覆面に手を掛けた。
「これは試合ではない、実戦だ!謀略や欺瞞は武略のうちだ!『武者は犬とも言え、畜生とも言え、勝つことが本』と朝倉宗滴{越前朝倉氏の一族。当時、名将として名を馳せた}も言うではないか!」
怒鳴った。
「女だと思って甘く見るな!山内上杉に卑怯者なぞおらぬ!」
「もっともだ。」
紅の顎に白刃が当てられた。
「実戦ならばこの瞬間、そちの首は飛んでいる。」
いつの間にか首領が傍らに来ていた。
紅は構わず覆面を剥いだ。
「あっ、そなたは!」
先だって、信虎を公方さまの元へ案内していた近習だった。
美しい顔を歪めて、紅を睨みつけた。
満月に薄っすらと額の傷が浮かんでいる。
紅は、振り向いて首領を見た。
「そちは余の顔を知らぬであろう。」
首領もゆっくりと覆面を取った。
「余が、公方じゃ。」