第19話 薄野の蘆
「そなたは、彼奴らなんぞ何処の鄙の出かと思うとるようじゃが」
信虎は言った。
「三好一族は堺と結びつきが強く、茶の湯に造詣が深い。茶器の九十九髪、珠光小茄子なんぞ持っとった。」
九十九髪は足利義満が所有していた天下三茄子のひとつであり、珠光小茄子は後、信長の手に渡り、滝川一益が褒美に関東管領の地位より欲しがったという逸品である。
「一族の実力者じゃった宗三{三好政長}に」
何かを思い出したらしく、忌々しげに舌打ちした。
「良い刀をもらったことがある。娘婿の今川にやったら、桶狭間の戦いで、当主の首と一緒に、尾張の織田に取られてしもうた。今では『宗三左文字』という名が付けられて、織田家の家宝になっとるらしい。」
左文字、鎌倉時代後期の刀鍛冶で、一般には『大左』と呼ばれている。地方鍛冶ではあるが相模国鎌倉の名工正宗の影響を受け、地金は冴え、刃には輝く沸が冴える。道具として切れる刀でありながら、美しく、戦国時代の名だたる武将にもてはやされた。
「修理太夫{三好長慶}は、連歌をよくする。」
なかでも有名な句がある、という。
弟の三好実休が合戦で討ち死にしたとき、長慶は居城で連歌の会を開いていた。
知らせを聞いた長慶は、
薄に混じる蘆のひとむら
との前句に対し、
古沼の浅きかたより野となりて
と返し、客に弟の死を静かに告げ、敵が攻めてくるであろう、と言って客を帰した、という。
「それって時代の流れを詠んでいるんでしょうか。参加した人たちは誰もが皆、自分が、埋め立てられていく古い沼に僅かに残る蘆なのか、それとも蘆原を変えていく薄なのか、考えたでしょうね。」
紅は感心して言った。
「修理太夫は兄弟にも恵まれておったが」
有能で忠実な三人の弟が手足となって、彼を盛り立てた、という。
「何より彼奴の凄いところは、この位階や故事にうるさい地・京で、身分に拘らず人を採用し、その中でも、これはと見込んだ人物を、家格の上昇無しに取り立てたことじゃ。」
「家格?」
「普通、身分の枠を超えようとするとき」
信虎は言った。
「その者を上の家格の家の養子や養女にしたり、婿取りや嫁取りをさせる。そなたがここで働くために四辻の娘になったのと同じじゃ。」
後年、信長は関東以北の征服を目論み、嫡男の信忠を東北を統治する職である秋田城介に任じた。又、九州征伐を計画して明智光秀を日向守に任じたのも、これと同じ理屈からである。時代の常識を覆したと言われる信長でさえ、世の人にわかり易いよう古い官職を使っているのである。逆に言えば、信長といえども、これだけ気を使わなければ、人心を掌握出来なかったのである。
「そんなの、当たり前じゃないですか。分は超えられないでしょう。それとも、そうじゃないあり方もあるってことですか?」
「うむ。」
頷いた。
「松永なんぞ、無名の松永のまんまで御相伴衆にまでのし上がった。修理太夫が許したのじゃ。普通じゃったらありえん。修理太夫本人がどう思っとるのかは別に、結果として、公の権威なんぞ認めておらんことになる。」
茶をすすり、干菓子を齧った。
「膨張政策を取る家は、新しい人材を必要とする。三好しかり、尾張の織田もじゃ。血筋ばかり気にしているわけにもいかん。わしは、自分自身は血筋が大事の人間じゃが、甲斐におったときには、『上意の足衆』と名づくる、他国出身の勇将を集めた直属の部隊を持っておった。豪族どもは勝手気ままで、すぐ反抗する。自分の意のままに動く部隊を組織することは絶対必要じゃ。ただ」
付け加えた。
「そちは野心も志もありそうじゃから言っておくが、上に立ったとき、家格の上昇無しに身分の低い部下を抜擢すると反感が凄い。それだけは覚えておいて上手くやることじゃ。現に霜台を見よ。あれは修理太夫に抜擢されたのを恩に着て、あの男にだけは忠実じゃ。じゃが、あれのことをよく思わない者は三好の家中にたんと居る。本人も、忠誠を尽くすのは恩ある修理太夫に対してだけ、と思っておるじゃろうな。修理太夫が生きているうちはよいじゃろうが、もしあれに万一のことがあったら、霜台は家中を割る元となるじゃろうな。」
「公方さまも修理太夫さまと仲良くなさったらよろしかったのに。」
紅が言った。
「修理太夫さまはどんなに力があっても、少なくとも御自分は、分を超えようとはなさらないんだし。」
「そういうわけにもいかなんだ。」
信虎は言った。
「今の公方は骨のある男じゃからな。三好の傀儡に甘んじる気は無かろう。わしの息子が人格者じゃからと言って、そちは主と仰ぐか?」
紅は首を振った。
「人には、どうしても譲れないことというものがあるのじゃ。」
「修理太夫さまって」
紅が言った。
「面白い方ですね。一度お会いしてみたいです。今度いつ、おいででしょうか。」
「彼奴の嫡男が一年前に病死しての。」
信虎は言った。
「それ以来、気落ちして、彼奴も床に伏せるようになってしもうた。四月程前には自分の片腕だった弟の摂津守{安宅冬康}を誅殺した。」
「まあ。謀反の疑いでもあったのでしょうか?」
「いや、摂津守は、兄に鈴虫を贈って、『鈴虫でさえ大切に飼えば冬まで生きる。まして人間は尚更である。』と無用な殺生を諌めたこともあるという。穏やかで優しい仁慈の将として評判が高く、人望も厚かった。讒言があったとも、修理太夫が乱心したとも言われる。人気があったのが却って災いしたのだ、という見方もある。それまでに豊前守{三好実休}、讃岐守{十河一存}という自分を助けてきた弟たちを全て失っておる。二月程前じゃったか、公方の元に、新しく世継ぎに決めた讃岐守の息子{義継}と挨拶に来おった。それ以来、とんと姿を見せぬ。それからの、紅。」
ぎろり、と見た。
「皆、勘違いしておるようじゃが、わしにとってそちが、有用であるように思えるから、色々教えてやっておるのじゃ。いや、まだ子供のそちに、今すぐどうこうしてもらおうとは思っておらん、が、これは貸し、じゃ。いつかは返してもらうぞ。」
紅にも、この人がわかってきている。
彼らしい、と思った。
「かしこまりました。いつでもどうぞ。」
頭を下げた。
「陸奥守さま。」
襖の向こうから、誰かが声を掛けた。
「お待たせ致しました。上さまにお目通り適います。こちらへどうぞ。」
「おお、そうか。」
信虎は立ち上がった。
紅は手をついて頭を下げた。
襖がすっと開いた。
信虎の姿が向こうへ消える前、先ほど声を掛けた者の姿がちらりと見えた。
美少年だ。
珍しいことではない。
公方さまの周りにはいつも、華奢で美しい若衆が侍っている。
ここへ奉公に上がってすぐ、何気なく侍女たちにそう言うと皆、袖引き合って、くすくす笑った。
(わかんないのね)
(田舎者だから)
(無理も無いけど)
「ええ、そうよね、美しい少年がたんと居るわ。」
一人が笑いを堪えてやっと言うと又、一斉にわっと笑った。
馬鹿にする種を待っているような連中を喜ばせるのも癪なので、それ以来、当たり前のような顔をしている。
紅も、うっすら知っている。
公方さまは『そういう御趣味』なのだ、と。
よく夜中、公方さまのお部屋で宴会を開いている。
こいつもその中の一人だろう、だが。
視線を感じた。
(睨んでいる)
はっとして顔を上げると、何でもないような顔をして、すっと襖を閉めた、でも。
その額に、薄い傷跡を見たような気がした。
襖に駆け寄って、開けた。
そこにはもう、誰の姿も無かった。