第18話 混沌
館の者は皆、三好の一族に気を使っている。
でも彼女が気になるのは、本物の
(混沌)
例えば、松永霜台の混沌は『下品』、人間欲に根ざした人間の欠点、底の浅いものでしかない。三好の人たちがいくら専横といっても、たまたま都の近くに住んでいて、ちょっとばかし武力があるからといって、都人を威しているとしか、紅には思えない。
(小物)
感はどうしてもぬぐえない。
でも彼は
(違う)
只者とは思えない。
その人物はいつも、書院の、日の当たる縁側が定位置のように座している。
在京守護、相伴衆・筆頭。
『相伴衆』というのは、元々は、将軍の宴席や御成りに相伴する有力守護のことを指していたが、この頃には、将軍から地方の有力大名に与えられる栄典授与のうち、最高の栄誉を意味するようになっていた。
てかてかと光る巨大な頭に、逆三角形に尖った顎は、まるで蟷螂のそれのようだ。白の小袖に墨染めの法衣、掛絡を纏って、一見、行い済ました隠者風だが、広い額の下にある蛇のような三白眼は、その狷介不羈の心根を語って止まない。
初めて会ったとき、
「見慣れぬ顔じゃの。」
大きなぶ厚い唇を開いて、向こうから声をかけてきた。
「皆が言うとった今参りとは、その方か。長尾の使いと聞いたが。」
長尾、って。
(上杉の敵、だ)
ひどい目にはあったけれど。
紅の、上杉家に対する忠誠心に、揺るぎは無い。
(お屋形さまの悪口を言う奴は、許せない)
紅は、あさってのほうを向くと、かしこまった。
「おそれながら、申次の方に言上いたします。私めの主を、長尾、と仰るようですが、山内上杉家を継ぎましたので、山内、でございます。それから、山内の使いか、と仰せでしたら、それは違います。」
「ふん」
苦笑した。
「やめい。申次なぞおらぬ。直答許す。それに直れい。」
「はっ。」
老人のほうを向いて、かしこまった。
「山内とはどうしてもお呼びになれない御事情がおありでしたら、今後は長尾とお呼びになってもお返事いたします。」
「あるわ。」
一喝した。
「彼奴が関東管領・山内上杉家を継いだことを認めてしまうと、今後は我らがへりくだらねばならなくなる。関東管領は、甲斐国主にも命令を下せる立場じゃからの。それにしても」
独りごちた。
「関東管領家にとっては仇じゃった長尾が今、関東管領を名乗るか。時代も変わったものよの。ところでその方、何者じゃ。」
「えっと、藤原南家、じゃなくって、四辻の娘、でございますっ!」
「四辻の娘とな。又か。わしゃ、清和源氏じゃ。どっちにしても、そちゃ、敵いはせんわ。そんなことはどうでもええ。名は何と申す。」
「今……。」
「ええい、本当の名、じゃ。」
「宇佐美、紅でございます。」
「ホ」
目を細めた。
「駿河の身内か。」
「孫でございます。」
「息子をさんざん悩ませたそうじゃが、死んでもまだ、てこずらせる気か。」
元甲斐国主、武田信虎は言った。
「お褒めの言葉と」
紅は言った。
「受け取っておきます。」
それから、信虎にお茶を出すのは、いつの間にか紅の専従になってしまった。
気難しい男だと、先輩の侍女や女の童は彼を煙たがっていて、有体は押し付けられたようなものであった。もちろん、紅も可愛がられているとはとても言えなかったが、何を言われても平気でどんどん話しかけるので、懐いているとでも思われたのかもしれない。
実際、同僚の子たちと他愛ない噂話をしたり上役の悪口を言い合っているより、この男と話をしているほうが面白かったし、ためにもなった。この都で、三好を畏れず言いたいことを言える、ほとんど唯一の人間に見えたからである。
「当たり前じゃ。」
ふんぞり返って言った。
「彼奴らは、我が武田家の支流の小笠原氏の分派の末流じゃ。どれほどのことも無いわ。」
「公方さまの補佐である管領・細川家の知行地、阿波における家宰に過ぎない、というじゃありませんか。」
「うむ、陪臣じゃ。」
「なのにどうして、あんな大きな顔をしているんですか?」
「公方はほとんど都にいなかった。その間に都の実権を全て、彼奴らが握ってしまったからじゃ。」
応仁の乱以来、将軍職は、その執事である管領家の欲しいままになっていた。
管領を出す家の中でも、斯波氏・畠山氏を下して権力闘争に勝ち抜いた、細川家の当主の気に入る人物でないと将軍職に付けなくなっていた。将軍候補者なのに、都に入ることが出来ない者さえ現れた。
その細川家の中でお家騒動が勃発すると、各・将軍候補者の家臣が争いに参入し、権力は更に下の者の手に渡るようになったのであった。
将軍家は、欲しいままに首の挿げ替えをされるばかりか、現公方の祖父の代になると、都に居ることさえ出来なくなり、同じく権力を失った細川家の当主と共に、戦を避けて近江に逃げることも多くなった。
前公方はとうとう、都から追われて逃げた先で亡くなっており、現公方も三好と和解して初めて、都に居ることが出来るようになったのであった。
将軍が都に居ないため、実務は全て三好が行っていて、しかも何の滞りも無かった。
「見ろ、松永霜台なんぞ三好の家宰じゃ。陪臣の陪臣よ。」
小侍従に不思議がられてしまった。
「何で陸奥守{武田}さま?」
紅が信虎に懐いているという噂を聞いたらしい。
「まだ松永霜台のほうが、侍女たちの受けはいいように思うけど?」
「はあ。」
あの目付きが不安で、とは言えなかった。
「あの方も、いわくつきの方だから」
武田信虎は戦に強く、甲斐の領国統一を成し遂げたが、その過程で領内に圧政を敷き、とうとう家臣に総スカンを喰って、嫡男に追い出されてしまったという。
「親を追い出すなんて、親不孝もいいところだから」
嫡男が悪い噂を広めているんじゃないか、という見方もあるだろうけど、と前置きしながら、小侍従はそれでも、
「あの方が甲斐を追い出されたときには」
家臣一同、諸手を挙げて喜んだ、というのは事実らしい、と言った。
もっとも、
「あの方が辣腕を振るったおかげで、殆どの守護が守護代やそれ以下の陪臣に権力を奪われて没落していく中、甲斐武田家はお飾りの守護から実力ある大名として生まれ変わることが出来たというけれどね。」
それはさておき、と続けた。
「あなたもそろそろ子供は卒業なんだから」
気をつけて行動しなさいね、と注意された。
信虎には、甲斐での評判の部分は省いて伝えると、
「わっはっは」
笑われた。
「男はの、年をとると女子なんぞどうでもようなるのじゃ。そなたのような見目を持つと今後、男で迷うことも多いじゃろう、いや待て、怒るな、そなたが悪いと言っておるんじゃないわ、馬鹿者。忠告してやっておるのじゃ。よいか、男にとって最後に残るのは権勢欲よ。それをしっかり覚えておけ。」
信虎は言った後で、ちょっとにんまりした。
「そうか、霜台よりわしが良いか、やはり何じゃの、溢れ出る気品が違うからかの。」
いえ、あなたはご自分のことしか考えていらっしゃらないからわかり易いのよ、と内心思ったが、にっこりしておいた。