第16話 今参り
台所へ行こうとすると、今日は奥の部屋においで、と言われた。
「小侍従さまに御挨拶おし。」
小侍従さまと呼ばれる女性は、書類を一杯積んだ机の前で書き物をしていた。痩せぎすでそう若くもなかったが、姿勢のいい、涼しい目をした女だった。
紅が手をついて挨拶をすると、いきなり言った。
「今日からは奥向きの用をしてもらう。ここで見たこと、聞いたことは他言無用だ。それだけは絶対守ってもらうよ、わかったね。さもないとそなたは、そなた自身の命を失うことになる。」
紅が気を呑まれて黙っていると、言葉を継いだ。
「合戦は何処か、広い野原か険しい山城で行われると思っているだろう。でも屋敷の塀の内で行われる合戦もあるのさ。そのうちそなたも、誰が味方で誰が敵か、自ずとわかるようになるだろう。あ、それから」
書類のほうに向き直りながら言った。
「今日からそなたは、今参り、と呼ばれる。」
「は?」
「新人、という意味。」
「私には名前があります。」
思わず言った。
「それに新人は私だけですか?紛らわしいじゃないですか。」
「誰でもいいのさ。」
あっさり言った。
「顔なんぞ誰も見てやしないよ。いくらでも替えがきくから、新人は皆、今参り、さ。名を名乗りたいんだったら、そなたならではの存在にならなくちゃね。でも、まだ早い。」
紅の顔を見て言った。
「おや、がっかりしたかい?逆に言えば、まだ幾らでも機会はあるってことさ。励みなさい。」
「小侍従さま。」
笹舟が部屋の外から声を掛けた。
「又、おむずかりでございます。」
「仕様が無いわねえ。」
紅に、
「おいで。」
席を立った。
長い廊下を歩いて、屋敷の更に奥へと進んで行った。一番奥の部屋の前で、声を掛けた。
「入ります。」
「ちょっと、あの女だけは入れへんどくれ!」
誰かが抗議したが、構わず襖を開けた。
部屋の中にいた数人の侍女が、慌てて平伏した。
屏風を廻らして、誰かが横になっている。
(なんか、臭い)
酒、臭い。
「構わないから、襖を開け放して風を入れとくれ。」
小侍従は言うと、自分が先頭きって襖をどんどん開けていった。明るい光が部屋の中いっぱいに差し込んで、風が酒の臭いを運び去った。
「あー、もう!」
横になっていた人物が夜具を被りなおすのを、小侍従は遠慮なく手を掛けて、引っ剥がした。
「鬼、鬼!」
「そんなもん、とっくの昔に、源頼光に退治されましたよ。」
小侍従は、ぽんぽん言った。
「さ、起きてください。眠いんだったら、御酒はお過ごしにならないように。もっと早く寝ればいいんですよ。」
「わらわが早う寝るわけにいかいないやろ。」
泣きが入った。
「わらわがおらへんかったら、話が進まへんのやさかい。」
「悪巧みも大概になさって下さいまし。」
小侍従が言った。
「せめて朝、起きられる程度に、ね。」
「悪巧み、とは何や。」
ぶつぶつ言った。
「奪われとった権利を取り戻すためン戦や。悪巧みだなんて、人聞きン悪い。」
小侍従は構わず、紅を省みて、
「そこにある櫛を取っておくれ。」
紅が櫛を渡すと、
「さ、私が梳いて差し上げますから、お起きくださいませ。」
寝ていたのは大柄な老婆だった。億劫そうに起きようとする。
小侍従は紅に、
「支えてさしあげて。」
紅は老婆の背中を支えようとした。
途端に老婆は、
「いらわんといて{触らないで}!」
鋭く言った。
「誰や、見かけへん顔やな。」
「今参りでございます。どうぞ、よしなに。」
小侍従が言い、紅はかしこまった。
「何処の馬の骨だかわからへんような者とは話さへん。」
紅は思わず、
「わっ、私は、藤原南家乙麻呂流の支流……。」
「ああもう、ええ、わかった。」
頭痛がするらしく、頭を片手で押さえながら、もう片方の手を四辻卿の扇みたいに振るので、はっと思いついて、
「四辻の娘でございますっ!」
「へえ。」
振り向いて顔を見た。
「又かい。これで何人目かえ?」
小侍従が答える。
「十人までは数えましたが、後は忘れました。」
紅に言った。
「その辺歩いているのは皆、四辻の娘だよ。ああ、きょろきょろするんじゃない。皆、ニセモノなんだから。」
「ほんとは何処の娘や?」
老婆が聞く。
「ええと、藤原南家……。」
「そうやない、何処から来たんだえ?」
「越後、です。」
「えっ、じゃあ、山内の?」
老婆が顔を輝かせた。
「そち、山内の使いかえ?」
山内って、関東管領・山内上杉家、つまり、お屋形さまのこと?
「こっちからは取次{連絡係}として岩鶴丸{河田長親・謙信の側近}をやった。その代わりに寄越されたのやろ?」
「まあ、いいじゃないですか。」
小侍従が割って入った。
「こんな小娘に何か出来るわけ、ないじゃないですか。この娘はただの預かり物です。」
「そうなんですか、お屋形さまのお指図なんですか、私がここに居るのは?」
紅は小侍従に聞いた。
あたしは見捨てられたわけじゃなかったのだろうか。
それにしても、罪人の娘を、何でお屋形さまが。
「そなたも余計なこと、考えないの。この話はこれでおしまい。」
老婆の身支度を手伝ってから、小侍従について、部屋を出た。
「あの方はどなたですか?」
聞いた。
「あれは」
小侍従は言った。
「公方さまのお母上、慶寿院さまさ。」