第165話 春の雁
着物を代え、そこかしこに付いた血を丹念に拭き取ると、気持ちが少し、落ち着いた。
紅は庭に出てみた。
まだ雪は深いけど、寒さが緩んで春らしくなり、日も少し伸びた。
見慣れた影がある。
兼続だ。
彼女に気づかずに、空を一心に見上げている。
釣られて紅も、見た。
茜色に染まる空を、雁が、異国の喇叭のような声で鳴き交わしながら、編隊を組んで飛んでいく。
声を掛けると、びっくりしたように振り向いて、紅を認めると、子供のようにニコリと笑った。
「私、もう暫く越後に居る。」
紅が言うと、兼続の顔がぱっと輝いた。
声を弾ませて言った。
「それは良かった。」
「お屋形さまが」
紅は言った。
「亡くなられたの。」
「そうですか……。」
暫く二人、無言で空を眺めていた。
新しい勢力が西から迫っている。
古い勢力は、ある者は没落し、ある者には陰りが見えている。
「大変なことになりますね。」
「喜平二さまの治世が落ち着くまで、ここに居てお助けする。」
「雁のように北にお帰りになったのですね。あの華やかな都に背を向けて。」
兼続が言った。
近世になると、雁はもっぱら秋のみ想起させるものとなるが、古くは花を見捨てて去っていく雁の姿に、春の到来を知ったのである。
彼女は雁みたいだ、と兼続は思っている。
俺の心に春を呼んでくれた。
紅は感心して言った。
「詩みたいね、あなたの言うことって。」
「お祖父さまのお仕込みです。私を作ったのは……。」
あなたです、と言いたかったが、やめた。
この恋は一生、封じ込めておく。
でも、ずっと側に居る。
決して色褪せず、変わらない想いと共に。
代わりに吟じた。
春雁似吾々似雁
洛陽城裏背花帰
春雁吾に似て
吾雁に似たり
洛陽城裏
花に背いて帰る