第164話 南アルプスの娘
山を越えると、どうしてこんなに天気がいいんだろう。
日本の背骨を成す山々を越える度、思う。
足元に気を配ること無く、歩ける路の快さよ。
背負った青苧を所々で売り歩きながら、風の吹くまま気の向くまま、歩いていく。
今度の旅は長いものになる。
この街に腰を落ち着けて、探索する。
「やあ、勘三郎さん。」
呼びかけてくれる人に、にこやかに挨拶する。
偽名を使って街に溶け込み、世情を探る。
お城下に住んでいれば、探索の相手の身近に接する機会もあるから。
今朝はまさに、そんな朝だった。
笠を被った女性が二人、馬に乗っていくのに、ばったり出会った。
控えめながら着心地の良さげな衣装を身に纏い、乗っている馬も見事だ。高貴な身分の主従と見た。
二人は何やら声高に言い争っている。
後ろから付いてくる女が、ぶうぶう言っている。
「私はもう、姫君には付いて参りませんっ!」
「あら、いいわよ。」
前を行く女は気にも留めずに言った。
「一人でも出かけるもん。」
「とんでもない!」
後ろを行く女が叫んだ。
「拐されてしまいますっ!辻盗り{人さらい}に会っても知りませんよ!」
「大丈夫よォ。だって、下々の女は皆、一人でも出かけるというじゃない。」
前を行く女が笑った。
「それに、私にはこの、武田が誇る優秀な馬がいるんだから。」
ねえ、と身を屈めて自分の乗っている栗毛の馬の首を叩いた。
一陣の風が吹いた。
その拍子に、主の被っていた笠が、風に煽られて、はらりと落ちた。
笠はくるくると回りながら、猿若の目の前に舞い降りた。
猿若は色代して、両手で笠を捧げた。
彼はお付きの者に笠を渡そうとしたのに、女主人は、深窓の令嬢にはどうも相応しくなく、気さくにも身軽に、馬上から身体を伸ばして、笠を直接受け取ってしまった。
「有難う!」
朗らかに礼を言った。
遠慮して俯いていたので、残念ながら顔はよく見えなかったが、女の豊かな栗色の巻き毛が流れ落ちているのが、ちらりと見えた。
(これは珍しい)
呂宋からの帰り道、異国人で溢れる琉球にも寄ったが、めったに見かけないほど見事な巻き毛だった。
晴天の下、青い山々に囲まれた甲斐の国で、苦労を知らずに伸び伸びと育った、明るい姫君。
去っていく女たちの後姿を見送っていると、近所の者たちが立ち話をしているのに気づいた。
「あれが」
「ほら、例の姫君。」
猿若は挨拶して、話に加わった。
「あれはどちらの姫君ですか?」
「躑躅ケ崎の殿さまの妹君だよ。」
皆、くすくす笑っている。
「法性院{武田信玄}さまの五女だったか、六女だったか。」
「よく見かけるよ、いつも通るんだ。」
「いやはや」
「兄君も大変だねえ。」
「大変、というと?」
猿若は尋ねた。
「じゃじゃ馬、ということですか?」
「いやあ」
「ま、お転婆っちゃお転婆なんだが……。」
皆、口ごもって、くすくす笑う。
「ま、要するに変わり者、さ。ところであんた、何処から来なすった。」
「越後からです。」
「暫くここに居るつもりかね?」
「ええ、商いによっちゃァ。」
「じゃ、すぐわかるよ。」
皆が言った。
「明日も又、通るよ、きっと。」
「何も無けりゃ、ね。」
「何かあるもんかね。」
年寄りが言った。
「武田が治める国じゃよ。明日も明後日も変わらず、同じような日が続くんじゃ。」




