第163話 別れ
その時、景勝の背後で、鈍い音と、呻き声が上がった。
互いを慰めあうのに夢中だった二人は、振り返って
「!」
目を疑った。
いつの間にか起き上がったお屋形さまが、自分の腹に、刀を突き立てている。
二人とも驚愕して、お屋形さまの元に駆け寄った。
傷口から、血がどくどくと流れ出している。
抜いたら、どっと溢れてしまいそうだ。
(どうしよう、どうしたらいいの?)
紅が惑乱していると、お屋形さまは苦しい息の下から仰った。
「もう回復の見込みは無い。俺ともあろう者が、思うように身体が動かず永らえるのは恥辱だ。よって、自らを決裁して逝くこととした。嘆くな。」
死を前にして、意識が鮮明に戻ったようだった。
「喜平二。」
苦しい息の下から、景勝に呼びかけた。
「そちの父を討ったのは駿河{宇佐美定行}だが、同時に、そちを養子にするよう、進言して逝った。事情を知っている者は、そちを跡継ぎにすることを危ぶみ、遠ざけることを望んだが、この娘を助けたそちを見て、駿河の進言通りにすることに決めたのは、この俺だ。上杉を継げ。何の遠慮をすることも無い。それから」
紅に語りかけた。
「駿河は、自分の一族には厳しい処分を下すよう、言い残していった。さもないと、この計略は成り立たぬ、と申してな。長い間、苦労を掛けた。駿河の進言があったとはいえ、裁量したのは、この俺だ。そちには済まぬことをした。許しがたいことであろうな……。」
震える手で彼女に手を伸ばした。
「いいえ、いいえ!」
血に塗れたその手を、両手で握って、紅はすすり泣いた。
「私は、あなたさまの家臣でございました。今までも、そしてこれからも、ずっと……。」
お屋形さまは微笑んだ。
「俺が折檻を止める間もなく、刑吏の棒を斬り飛ばしおって……俺よりセッカチな男だが、これからは主として仕えてやってくれ、宜しく頼む。……翡翠の珠。」
囁いた。
「俺が、越中{現在の富山県}からの遠征の帰り路に、海辺で拾って、あれにやった。二人の絆の証として……棺に入れてやったのを、そなたらが持っていたんだな……。」
景勝の刀の鞘に揺れる珠を指した。
「これでございますね。」
紅は懐から珠を取り出して、お屋形さまの掌にそっと載せた。
「そっくりだ……あれが語りかけてくれているようだ。」
女の名を呼んだ。
景勝の知らない名だったが、紅の目は大きく見開かれた。
ふいに、お屋形さまの力が抜けた。
二人で必死に呼びかけたが、もう、魂が戻ってくることは無かった。
「誰、だ?」
景勝が紅に、お屋形さまが呼びかけた女のことを尋ねた。
「私の叔母です。」
紅はお屋形さまを床に寝かして、夜具を掛けて差し上げた。
「叔母が身籠ったという知らせがございました。許婚だったようでございます。存じませんでした。」
遠い日を見る目で言った。
「お坊さまがよく訪ねていらしたと思っておりましたが……お屋形さま、だったのですね。」
景勝は自分の珠を鞘から外すと、紅のそれと共に、お屋形さまの掌に握らせた。
これでようやく、愛しあう二人は、黄泉の国で一緒になれるのだ、と紅は思った。
「紅。」
景勝は言った。
「俺は誓う。この国に尽くす。お屋形さまから受け継いだ、この国を守るために。どんな犠牲を払っても。」
紅は、彼に向って手を突いた。
「私もお誓い申し上げます。私は、あなたにお仕え致します。あなたの為なら、何でも致します、この命をかけて。」
「後始末は、直江の後室{未亡人}にお願いする。」
景勝は、紅を気遣った。
「そちは去れ。係わり合いにならぬほうが良い。尚、このことは上杉の内で始末する。上田衆にも知られないほうが良いだろう。公にすると、父の謀反に関わった者も追求せざるを得なくなって、お家を揺るがす大事になってしまう。お屋形さまの手で、既に封じ込められた企てだ。今更、蒸し返すのは、お望みではなかろう。よって、与六にも他言無用だ。」
「かしこまりました。」
景勝は、紅の肩に手を掛けた。
異様に気が高ぶっている。
「この秘密を知るのは二人だけだ。」
辺りは血の海だ。
こんな時、こんな所で、何故だか、戦の後のように血が騒いでいる。
(抱きたい)
女の中に、体中を駆け巡る熱い血を注ぎ込んで、火照りを鎮めたい。心を騒がすモヤモヤしたものを全て、解き放って、頭を空っぽにしたかった。
女の唇に接吻しようとした。
が、ふと、顔を背けた。
肩透かしを食った格好の紅は、物足りない気持ちを心の奥に仕舞って、退出した。
一人残された景勝は、直江の後室が控えている部屋へ行こうとした。だが、不意に胸に突き上げてくる物があった。厠に行って吐いた。
身体に異変が起こっている。
そのことはわかったが、それが彼と紅にとって何を意味するのかは、その時にはまだ、わからなかった。




