第162話 刃傷
身繕いが終わると、紅は、ひっくり返った手文庫を起こし、床に散らばった中身をかき集めて元通りに仕舞おうとして、ふと手を止めた。
書面に目を走らせた。
その手が震え出した。
顔が真っ青だ。
「どうした?」
声を掛けたが、返事が無い。
景勝は身を起こした。
紅の背後から覗きこんだ。
『越前守の儀、某にお任せくだされたく』
云々という文言が目に飛び込んできた。
急いで仕舞おうとする女の手から、書状を奪い取った。
(これは!)
亡き宇佐美定行から、謙信に宛てた手紙だった。
一刻の猶予もございません。越前守の誅殺は某にお任せくだされ。
「!」
女は他の書状も次々に開いて、中身を改めている。
景勝は急いで身繕いすると、書状を手に立ち上がった。
「待って、お待ち下さい、他にも書状がございます、全て目を通して、事情を確かめてから!」
紅が袖を掴んで引き止めるのを、乱暴に振り払った。
襖をさっと開けると、隣の部屋に入り、立て回した屏風の陰に足音荒く消えた。
紅は手にした書状に目を落として、はっとした。
(喜平二さまにお知らせしなければ!)
床には、まだ開いていない書状がたくさん散らばっている。後ろ髪を引かれる思いだったが、血相変えて出て行った景勝を放ってはおけなかった。書状を掴んで、慌てて後を追った。
屏風の内側に足を踏み入れて、あっと声を漏らし、気が付いて口を押さえた。
景勝は、お屋形さまの胸倉を掴んで、無理やり起こしている。手には短刀があり、お屋形さまの首筋に突きつけている。
刃が震えて、お屋形さまの皮膚に、傷を付けた。すうっと傷痕が走り、血が一筋、糸を引いて流れた。
お屋形さまは、景勝に乱暴に揺すぶられて、気が付いたようだ。薄らと目を開けているが、焦点が合っていない。白目が血走っていて、どうにも普通の様子ではない。
「止めて!」
押し殺した声で言った。
「『景光』は主を傷つけたくはない筈!」
短刀は、謙信が大切にしている備州長船景光と見て取った。
果たして景勝は、刀を引いた。でも、今更、後には引けないという固い決意が眉に見える。
「父の仇!」
歯を食いしばって小声で叫んだ。
「俺はあなたを、親とも、いや、神とも思って崇めていたのに!」
「違う、違うの!」
紅は手にした書状を突きつけた。
「読んでください!」
にらみ合った。
ややあって、景勝は眼をそらすと、渋々、刀を置き、お屋形さまを又、床に横たえると、書状を受け取って、目を通した。
読むに従って、目が見開かれ、口がぽっかり空いた。
「父が……裏切り者だ、というのか!」
涙が滴り落ちた。
「こんなの、嘘だ……。」
「いいえ。」
紅は言いにくそうに言葉を継いだ。
「北条の調略に掛かられた、とありますが、お屋形さまがおいでにならなければ、越後を統べる立場のお方でした。実際、以前、謀反を起こされ、お屋形さまに成敗された経緯がお在りでした。全く無かったこととは言えますまい。他の書状にも、証拠となる事由が書きつらねてございます。お屋形さまは悩まれて、一時は不問に処そうとなさったのですが、祖父は、お屋形さまの為に、一人で決行したようでございます。」
紅は言葉を切った。
「お屋形さまは、祖父にとって弟子であり、息子でもある、宝でございましたから。」
景勝は、がっくりと床に手をついた。
「俺は……もう上杉家には居られない。」
「ご存じなかったのですから。」
女は男の肩を抱きしめた。
「祖父が罪を犯しても、私には罪は無いとおっしゃったではありませんか。」
「でも、俺はお屋形さまに刃を向けてしまった、しかも、二度も。あんなに崇め奉っていた方に対して。俺は、自分が許せない。」




