第161話 宿命
紅は、病室の隣の部屋に詰める景勝の元に、見舞いに訪れた。
普段、謙信が執務室にしている小部屋である。主の性格を反映して、たくさん書類があるわりに整っている。が、何しろ事務作業が多い。書類や巻物が、幾つかの小さな山になって、そこかしこに積んである。
遠征を控えて、決裁の要る急ぎの書類を、景勝が代理で見ている。
「お屋形さまは、ひと月前、都から画工を呼び寄せて、寿像をお描かせになられた。」
景勝は密やかに言った。
眠り続けるお屋形さまを憚って、不要の者は遠ざけられ、辺りはひっそりとして人影も無い。
「曽祖父さまは四十八歳で亡くなり、お屋形さまのお父上はその年に隠居なさった。同い年になられて、何か思うところがお在りだったのであろう。」
「喜平二さま。」
紅は、ずっと言わなければならないと思っていたことを切り出した。
「春になり、砲術の訓練も粗方、終わりました。お屋形さまの御病状がひと段落なさったら、私は堺に帰ろうと思います。」
「帰るって」
景勝は絶句した。
「な、何を言っているんだ。」
「初夏には、亭主が呂宋から戻って参ります。」
紅は静かに微笑んだ。
「堺で、亭主の帰りを待ちたいと存じます。」
「そなた、一体、何の為に越後に戻ってきた!」
思わず語調が激しくなったが、病室の隣であることを思い出して、声を落とした。
「久しぶりに故郷の地を踏んで、とても懐かしゅうございました。」
激高している景勝にはお構い無しに、冷静に続けた。
「皆さま、お健やかで嬉しゅうございました。」
「紅、そなたは俺の許婚ではないか!」
腕を掴もうとした。
紅が避けて、その肘が机に当たった。
机がずれて、普段、謙信が書状を仕舞っている瀟洒な螺鈿細工の手文庫が落ち、床に中身が散乱したが、それどころでない。
「私には亭主がおります。」
動じずに言った。
「喜平二さまは山内・上杉家のお方。私とは身分が違います。婚約は、私が越後を去った時に解消されたものと思っておりました。」
何言っているんだ、この女は。
「俺はそんなこと、思っちゃいない!ずっとずっと、そなたを待っていた!俺の妻はそなた一人だ!」
彼女の表情が動いた。
唇が震えている。
景勝は気が付いた。
紅の表情が、まるで冷たい湖に張る薄い氷のようになっていることを、水面下では、彼女の感情が激しく揺さぶられていることを。
「亭主は、私を、心の底から想ってくれているのです。」
低い声で言った。
「命がけで慕ってくれている、あのひとの気持ちを踏みにじることは出来ません。」
「何が亭主だ!」
俺のオンナの心を繋ぎ止めて。
「そなたを置き去りにした男だろう。」
「いいえ、私に無理強いをしたくなかったのです。」
紅は言った。
「喜平二さまと自分を公平に比べて、それでも尚、納得して自分を選んでもらいたいと思っているのです。そんな誇り高いひとなのです、亭主は。」
彼の誠意を踏みにじることは出来ません、と言った。
「わかった。」
じゃあ、帰れ、と言った。
行かないでくれ、と、ほんとは言いたかった。
彼女の亭主が、男らしく振舞っているのに、自分だけ、女々しく、彼女に縋ることが出来ようか。
でも。
それまで俯いていた彼女が顔を上げて、彼を真っ直ぐ見た。
その目を見て、
「馬鹿だな。」
ため息をついた。
「何、強がっているんだ。俺のこと、好きでたまらないくせに。」
腕を広げた。
「来い。これは宿命だ。俺たちはこうなることに決まっていた。」
唇を重ね、全てを脱ぎ捨てた。
肌を合わせて、ひとつになった。
声を忍んで、共に達した。
情事が終わった後、女を抱きしめながら言った。
「十余年前の約束を果たしたい。そなたを妻にする。俺にはそなたしか居ない。」
「いいえ。」
女は言った。
「あなたさまはこの国を統べるお方です。しかるべき方を正室にお迎え下さい。私はこうやって慰めていただけるだけで十分です。」
でも、言葉とは裏腹に、女の手は、男の背中に縋りついている。
離れたくない、と、その手は叫んでいる。
他の女を抱いては嫌。
あたしだけを見て。
(素直じゃない女だ)
胸が締め付けられる思いで、女を抱く手に力が籠る。
(好きって言え)
「ともかく、俺の側に居ろ。」
返すものか、亭主に。
巣に籠る小鳥のように身を寄せ合って、口づけを交わした。
女が起き上がった。
密やかに身繕いをする背中を、景勝は、横になったまま、気だるく眺めていた。
俺のオンナだ。
誰にも渡さない。




