第159話 Enthusiast
夫が執務している筈の部屋に行ったが、姿が見えない。
多分居るだろうと見当をつけて馬場へ行くと、案の定、馬を責めている。
「はい。」
水で濡らした手ぬぐいを差し出した。
「おっ、そなたはいつも気が利くなあ!」
大声で礼を言って、がしがしと顔を拭いた。
その様子を、船は、満足そうに見守った。
(何て逞しい腕なんだろう。そしてあの胸)
夫は、武芸自慢の上杉家でも、名の聞こえた猛将だ。
やって、やって、と、子供の頃と同じようにせがむと、ぴくぴくっと筋肉を動かしてくれる。彼女がそれに触って喜ぶと、彼も大声で笑うのだ。
(この遊びは二人だけの秘密)
昔っから老けてみられるのには慣れている。
年より若く見られがちな母と一緒の時など、姉妹に間違われる程だ。
でも仕様がない、割り切っている、だって私は上杉家の重鎮の娘なんだもの、重々しい振る舞いが要求されるのは。
他人の前では取り繕っている、いつも。
そんな私が解放されるのはただ、このひとと一緒にいるときだけ。こんな男らしい夫を持っている女は、他にはいない。
夫が好き、もう五つになる男の子に恵まれた今でもまだ。
父母にはなかなか子ができず、やっと生まれたひとり娘は、まだほんの子供の頃から、未来のお婿さん探しが始まっていた。
でも彼女の心は最初から決まっていた。
夫は母方の従弟だ。
若い頃から、武勇優れているばかりか心根も優しく、幼い船を可愛がってくれていた。
初めて会ったその日から、
(だぁい好き)
「私の方が勝ってる、絶対。」
「え?何が勝ってるって?」
「いや、ほんとに女を好いている男の顔って、初めて見たなあって思って。」
樋口兼続のことは以前から知っていた。若殿がいつも、いちばん身近に置いていたから。
でも今まで話をしたことは無かったし、したいとも思わなかった。
生まれ付いてのお姫さまである彼女にしてみれば正直、頭は切れるけど、知恵者を鼻にかける嫌味な男だと思っていた。成り上がり者らしいガツガツしたところも、気に喰わなかった。
女と見紛うばかりの素晴らしい美貌と完璧な頭脳を誇る、傲岸不遜な野心家。持って生まれた才覚ひとつを頼りに、彼女には思いも及ばないような、地べたから這い上がってきた下郎。
今まで、どちらかといえば敬遠していたような手合いだったが。
十何年ぶりかで故郷に戻ってきた噂の女を見るときの彼は、雨に打たれた子犬のように頼りなく淋しげな目をして、崇拝する女神がその僕を省みてくれるのを、ひたすら待っているかのようだった。
意外だった。
幼馴染だとは聞いていたが、まさか、主の想い者に恋焦がれていたとは。おおよそそうした、人間のつい、足を踏み入れてしまうような下世話なしくじりとは無縁の男に思えたが。
だけど、誰かを愛することにかけて、私の右に出る者はいない。
「誰とでも話をしてみるものね。人間って、色々な面があるんだわ。」
「え?」
おおらかでおおざっぱで、そうしたことには一生縁のなさそうな愛する夫が、大声で聞いた。
「ううん、何でもない。」
笑った。
「ヒ・ミ・ツ。」




