第158話 枷
景勝と道満丸は、褌一つになって、競争で泳いでいる。
紅は、泉水の真ん中にある岩によじ登って腰を掛け、髪を絞っている。
道満丸が父に、池に入るよう呼びかけている。
三郎は大笑いしていたが、あんまり息子が勧めるので、仕方無い、と言って着物を脱ぐと、池に飛び込んだ。
なかなか鮮やかな泳ぎで、紅が、わあ、すごいと言って誉めそやすので、道満丸が我が事のように大得意になっている。
皆、楽しそうに笑っている。
(でも、俺はもう、加われない)
子供ではないから。
庭の隅から、木立の陰に立って、主人たちが笑っているのを眺めるしかない。
宇佐美定行に教えを受けた、幼い日。
あれからずっと努力してきた、いつかは天の星に届くと信じて。
その努力が間違っていたとは思わない、思いたくない。
(お師匠さま)
心の中で呼びかけた。
(あなたは、どうすれば身分の枷を外せるか教えてくださった)
確かに、努力は着々と報われつつある。
今では、若殿の懐刀として、家中で彼の名を知らぬ者は無い、でも。
(どうすれば、あなたの孫娘の目を、俺に向けさせることが出来るかは教えてくださらなかった)
女は、岩の上で濡れた身体を乾かしながら、陽の光を浴びている。薄い着物がぴったり張り付いて、すんなりした身体の線がはっきり見える。
初めて会ったとき、天女さまかと思った。
今だって、羽衣を失くして岩に降り立ったばかりのようだ。
せつない想いで女を眺めていた。
だから、誰かが自分の後ろに来て、呼びかけているのに全く気が付かなかった。
「もし、樋口殿。はて、どうしたものであろう。樋口殿、ひ、ぐ、ち、殿!」
樋口兼続は、彼の名を呼ぶ声にようやく気づいた。
「あっ!」
慌てて色代した。
(直江の若奥方)
謙信の家老を務める直江家の、若いほうの奥方だ。
名を船という。今年の春先に亡くなった大和守の一人娘で、総社・長尾家から婿を取って跡を継がせている。大和守の後室{未亡人}がまだ矍鑠としているので『若』奥方なのだが、落ち着いた人柄のせいか、随分と年配に見える。後室と共に居るところを見ると、まるで姉妹のようだ。
「後でいいけど」
兼続が色代して視界が開けたので、彼が何を見つめていたか気づいたらしい。
「御中城{景勝}さまに、後ほど主人がお目通りしたいと申していたとお伝えください。……ほんとに綺麗な方ね。」
「あ、はい。」
兼続は口ごもった。
「堺で、あなたが見つけたのでしょう。」
「はい。」
「御中城さまは、あの方をこの城にお迎えになるのかしら。」
「さあ。御亭主がいらっしゃいますので……。」
「父がよく申しておりました。」
船は言った。
「あの方がお仕置きを受けそうになった瞬間、御中城さまが裸足で庭に飛び降りざま、刀を振るって、廷吏の棒の先を切って飛ばしたって。あの時、くるくると回る棒の切れ端が天高く舞い上がって太陽の中に入ったようで、その下で、倒れた少女を庇って、総立ちの諸将を睨みつけた少年の目が忘れられないって。皆、思ったんですって。可哀相に、と思いつつ、誰も止めることが出来なかった。皆、口をつぐんでいたのに、たった一人で大勢の大人相手に立ち向かった少年を見て、お屋形さまの前で刃を振るうなんてとんでもない、危険な奴だ、遠ざけなければ、と思うと同時に、この方こそ次代の上杉を担うお方だ、好むと好まざるに関わらず、この少年についていくことになるだろうって。二年前のお正月に、名を改めて弾正少弼の位をお受けになられた。その通りになりましたね。」
「……。」
「では、申し伝えましたよ。私は主人の元へ行きますから。え、何?」
兼続が、にこっと笑ったので、尋ねた。
「いえ。いつも仲睦まじくておいでなので。羨ましいです。」
「えっ?私たちのこと?」
素っ頓狂な声を出した。
いつも落ち着いていて、年よりも五つも六つも上に見られるこの人が、真っ赤になった。
「やあねえ!」
すっかり照れている。
でも兼続が淋しそうに笑っているのに気づいて、はっとした。
元々、気のいい女である。
「大丈夫よ。あなただってそのうち、いいひとが見つかるわよ。では宜しくね。」
慰めるように言うと、鼻歌でも歌いかねない調子で、足取りも軽く立ち去った。




